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メールマガジン『ぐん!とGUNMA』 平成24年度企画「古代ぐんまと東国文化」

<最終号>歴史に学び、未来をつくる

『ぐん!とGUNMA』 第246号 2013年3月15日

文化財保護課長 西田健彦

 今から約3万年前に群馬では人が暮らし始めました。山の幸、川の幸に恵まれた群馬は、人が生活するのに適した土地でした。しかし、人々はそれに満足することなく、荒野に鍬(くわ)を入れて集落や農地を開き、道路や水路を整備して、生活環境を整えてきました。この連載で扱った原始、古代の時代から、最新技術を導入し、新たな知識や文物を国内外から入手していました。さらに、自らも研究や工夫を積み重ねて、その成果を子供たちに伝えていたのです。

 原始、古代を基盤として中世の群馬があります。さらに、近世、近代、現代の群馬へと、途切れることなく引き継がれているのです。先人たちの努力により、今日の群馬が成り立っていることを、私たちは忘れてはなりません。

 群馬をさらに発展させて次代の人々に伝えて行くのは、現代の私たちの役割です。先人に負けない強い意志を持ち、努力しなければなりません。そのためには、あらためて、先人の業績を学び、そこから群馬の未来像を描く参考資料を得ることも大切です。

 「群馬県文化財情報システムWEB版」を利用すると、県内にある遺跡や国・県指定の文化財を、地図情報で検索することができます。
 歴史の勉強は、県内の各地に残る文化財を見ることからも、始められます。百聞は一見にしかず。皆さんの近くにある古墳、寺院、城跡などの文化財を見学してください。

(注意:「群馬県文化財情報システムWEB版」は平成25年6月30日をもって廃止しました。今後はマッピングぐんま「遺跡・文化財」(外部リンク)をご利用ください。)

 

古代群馬を襲った大地震

『ぐん!とGUNMA』 第244号 2013年2月15日

文化財保護課 飯塚聡

 菅原道真によって、寛平(かんぴょう)4(892)年に編纂された『類従国史(るいじゅうこくし)』には、平安時代初頭の弘仁(こうにん)9(818)年7月に関東で発生した大地震の様子が記されています。地震被害があったのは千葉県南部を除く関東のほぼ全域。山が崩れて谷を埋め、圧死した人は数え切れず、さらに上野国(こうずけのくに)の国境付近では、地震の影響による洪水が何度も発生したとあります。上野国すなわち群馬県周辺は、特に被害が大きかったようです。

 この大地震の様子は近年、遺跡の発掘調査によっても明らかにされています。渋川市の半田中原・南原(はんだなかはら・みなみはら)遺跡では長さ約400メートルにわたり幅10~20センチメートル、ところによっては数メートルに及ぶ、地割れや地滑りによる陥没が見つかっています。同様の地割れは県内各地の遺跡で確認されているほか、赤城山南麓では平安初期の集落を山崩れの土石が覆っていました。本県南部から埼玉北部の平野部では、水分を含む砂が地表に吹き出す噴砂の痕跡も数多く確認されています。古墳時代以来、浅間山と榛名山による数度の火山災害を示す多数の遺跡を有する本県において、これらは地震災害の事実を伝える貴重な事例です。

 群馬県は地震が少ないとされてきましたが、県内各地の遺跡は、数百年ごとに発生する大規模火山災害の記憶をよみがえらせるとともに、日頃から備えておくべきことを、私たちに教えてくれています。

天平の華 上野国分寺

『ぐん!とGUNMA』 第242号 2013年1月15日

文化財保護課 飯塚聡

 天平13(741)年聖武天皇は国ごとに国分僧寺(こくぶそうじ)・国分尼寺(こくぶにじ)の建立を命ずる詔(みことのり)を発し、全国でその建設が開始されました。僧寺には僧侶20人、尼寺には尼僧10人が配置され、国家の平安を祈る法会(ほうえ)や儀式が行われました。ここ上野国(こうずけのくに)に建てられた寺は、僧寺跡が国の史跡に指定され現在整備が進んでおり、発掘調査の結果、七重塔の基壇が全国の国分寺の中でも最大級の規模であったことが判明しています。
 全国の国分僧寺・尼寺の造営は、天平勝宝4(752)年に開眼供養が行われた東大寺大仏の造立とともに、仏教の力によって災いを取り除き、国家の安泰を図るという古代国家の基本方針を象徴する大事業であり、国の威光と仏教を広く全国に行き渡らせるきっかけとなりました。

 詔には、塔のそびえる国分僧寺は「国の華」であり、必ず良い場所を選んで末永く保つこととあります。史跡上野国分寺跡は、近接する尼寺跡とともに、前橋市元総社町と高崎市東国分町にまたがり所在し、赤城山・榛名山を背景に群馬を代表する山々を見渡せる、風光明媚(めいび)な台地に立地します。上野国のほぼ中央に位置し、国府からも近く、詔にそって土地が吟味されたことが分かります。こうして上野国分寺は国の華すなわち国家繁栄の象徴として上野国における天平文化の発信拠点となったことが推察されます。

 寺院造営は、土木建築、仏像、瓦など、高度な技術と大量の人員・資材を要します。詔から数年後、朝廷は寺の造営に地元豪族の協力も求めました。上野国では直ちにこれに応じ、天平勝宝元(749)年には造営に貢献した碓氷郡と勢多郡の豪族が報償されています。古墳時代以来、先進技術を蓄積してきた上野国では、豪族たちが誇りにかけてその造営に結集したと想像できます。

 皆さんも、数多く残る巨大な礎石とともに創建時の姿に復元された壮大な塔基壇にただずみ、天平の昔に思いをはせてみてはいかがでしょうか。

(参考:上野国分寺跡(こうずけこくぶんじあと)・上野国分尼寺跡(こうずけこくぶんにじあと))

(参考:史跡上野国分寺跡へのご案内)

(参考:史跡上野国分寺跡の発掘調査について) 
 

全国初! 古墳時代の甲(よろい)着装人骨の出土

『ぐん!とGUNMA』 第241号 2013年1月1日

文化財保護課 石田真

 24年11月、古代ぐんまを語る上で大きな発見がありました。上信自動車道の建設に伴い(公財)群馬県埋蔵文化財調査事業団が発掘調査を進めている金井東裏遺跡(渋川市金井)で、古墳時代の甲を身に着けた成人男性の人骨が出土したのです。

 上毛かるたに「登る榛名のキャンプ村」と詠まれる榛名山。今は静かな山容を見せるこの山も、過去に大規模な噴火を繰り返した活火山の一つです。6世紀初頭(約1,500年前)、榛名山は眠りから覚め噴火を始めました。遺跡のある榛名山東麓では、辺り一面に火山灰が降り積もり景色は一変しました。
 今回見つかった男性は、その火山灰の降り積もった大地にいました。そして、次に発生した火砕流に巻き込まれてしまったものと考えられます。すぐ近くの同じ火砕流の中からは、乳児の頭骨の一部も見つかりました。
 男性は、どういう立場の人物で、なぜこの場にいたのか。そして何をしていたのか。どうして甲を身に着けているのか。乳児との関係は。他にも多くの謎に包まれています。

 現在、この人骨は周囲の土と共に取り上げられ、室内での調査が行われることになっています。また、遺跡の発掘も継続しています。今後、少しずつ謎が解明されていくものと期待されます。

(参考:古墳時代の甲(よろい)着装人骨の出土について(金井東裏遺跡(渋川市)))

(参考:公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団(外部リンク))

いしぶみの国・群馬

『ぐん!とGUNMA』 第240号 2012年12月15日

文化財保護課 高島英之

 後世に伝えたいさまざまの事績を記念・顕彰し、それを後世に永遠に伝えるための手段として、硬い石に文字を刻んで残すという行為は、洋の東西を問わず古くから行われてきました。しかしながら、7世紀から11世紀に至るわが国古代の石文(いしぶみ)で、現存するものはわずか18例にすぎません。
 そうした数少ない古代の石文のうちの四つが本県に現存しています。天武天皇10(681)年の山ノ上碑(高崎市山名町)、和銅4(711)年の多胡碑(高崎市吉井町)、神亀3(726)年の金井沢碑(高崎市山名町)、それに延暦20(801)年の山上多重塔(桐生市新里町)の石文です。特に山ノ上碑、多胡碑、金井沢碑の 3基は非常に近接した場所に造られており「上野三碑」(こうずけさんぴ)といわれ、いずれも国宝と同格の、国の特別史跡に指定されています。

 わが国古代の石文には、朝鮮半島の新羅時代の石文の強い影響がうかがえます。奈良時代のことを記した正史である「続日本紀」(しょくにほんぎ)には、天平神護2(766) 年に「上野国にいる新羅人(しらぎのひと)、子午足等(このうまたりら)193人に吉井連(よしいのむらじ)の姓(かばね)が与えられた」とあり、現在の高崎市南東部一帯に新羅系の渡来人が多く住んでいたことが分かっています。実際、この地域は、飛鳥時代から平安時代の半ばにかけて、繊維製品や瓦の生産など、朝鮮半島伝来の先進的な技術を用いた当時の最先端技術産業の一大拠点でした。
 上野三碑という、わが国で類いまれな古代の石文がこの地にまとまって存在する理由は、先進的な渡来文化がこの地に根付いていたことによると考えられます。
 

古代の「大国」上野国

『ぐん!とGUNMA』 第238号 2012年11月15日

文化財保護課 飯塚聡 

 古代の群馬は、7世紀の飛鳥時代まで上毛野国(かみつけの(ぬ)のくに)、8世紀奈良時代以降は上野国(こうずけのくに)と記されました。

 7世紀、いち早く漢字文化と仏教文化が定着し、古墳にかわって寺院の造営が開始されます。7世紀後半には、前橋市総社町に関東地方で最も早い時期に造られた寺院の一つ、山王廃寺(さんのうはいじ)が建立されました。上毛野国の最有力豪族の拠点であったこの地は、古代上野国の中心地として引き継がれ、奈良時代には国府国分寺が造営されました。
 また、高崎市南部に集中する7世紀末から8世紀前期の古代の石碑「上野三碑」(681年の山上碑、和銅4(711)年の多胡碑、神亀3(726)年の金井沢碑)も、漢字と仏教の浸透の様子を雄弁に物語っています。

 7世紀後半以降、律令国家体制の確立に向け、国・郡・郷の行政制度が整えられ、中央と地方を連絡する官道も整備されました。都と陸奥(むつ)国(現在の東北地方)を結ぶ東山道駅路(とうさんどうえきろ)が上野国平野部を東西に通過し、新田郡では武蔵国府(現在の東京都府中市に所在)を結ぶ武蔵路(むさしろ)が南へ分岐しました。この分岐点近くには、新田郡の大規模な郡役所の跡が発見されています。

 平安時代、弘仁2(811)年に、上野国は大上中下の4種の国の等級のうち最上位である大国(全国13カ国)に格付けされました。天長3(826)年には、親王が国守となる親王任国(全国3カ国)となりました。また上野国は、信濃国などとともに朝廷直属の御牧(みまき)設置4カ国の一つとして、毎年50頭の馬を朝廷に献上する国でもありました。先進技術の集合体である馬生産は、古墳時代に大陸から伝来して以来、奈良・平安時代を通じて上野国の伝統産業として栄えました。古代国家にとって馬は、軍事・輸送のほか国家の儀式を飾る重要な役割を担い、また貴族にとっては富と権力の象徴でもあり、その主要産地となることには大きな意味がありました。

 古墳時代以来の各種先進技術の蓄積を背景に、豊かな国力を誇った大国上野国は、古代において一目置かれた存在でした。当時の都の貴族達は、千二百年後の国府(群馬県庁)の役人たちが国(県)の知名度の低迷に悩んでいることなど、誰も信じようとはしないでしょう。

豪族の居館

『ぐん!とGUNMA』 第236号 2012年10月15日

文化財保護課 諸田康成

 古墳時代は、お墓だけでなく、生活の場も支配者である豪族(各地域の首長)と、支配される民衆とに分かれていました。

 豪族は、周囲に濠(ほり)や柵などを巡らした館を営んでいました。このことは、高崎市三ツ寺町に所在する三ツ寺1遺跡が発見されたことから、全国で初めて明らかになりました。
 三ツ寺1遺跡の居館は、5世紀後半から6世紀初め頃のもので、石をふいた幅約30~40メートルの水濠で方形に囲まれ、張り出し部も設けられていました。この約90メートル四方の区画内には柵列が巡り、竪穴住居や大型の掘立柱建物、石敷き遺構や井戸・水路などが発見されています。
 また、滑石製の模造品(勾玉(まがたま)・鏡・斧など)や、木製の儀式の道具(刀形や鳥形など)といった、祭祀(さいし)や儀式に関係する遺物が種類・数ともに多く出土しています。このことから、三ツ寺1遺跡の豪族居館は、生活だけではなく政治的・祭祀的な機能も持っていたと考えられています。さらに、北西1キロメートルにあって、前方後円墳からなる保渡田古墳群との関係性が指摘されています。

 県内では、太田市の成塚遺跡(5世紀)、伊勢崎市の原之城遺跡(6世紀中頃~後半)、高崎市の北谷(きたやつ)遺跡(5世紀後半から6世紀初頭)などで居館が発見されています。
 こうした豪族居館は、古墳とともに当時の群馬県の豪族の権力の大きさを物語るものとして注目されています。 

 (注)「三ツ寺1遺跡」の「1」は正式にはローマ数字

武人と飾馬(かざりうま)~埴輪(はにわ)のはなし~

『ぐん!とGUNMA』 第234号 2012年 9月15日

文化財保護課 諸田康成

 現在見られる古墳は、木や草が生えてうっそうとした状況となっています。しかし、造られた当時には、土が崩れないようにふき石と呼ばれる石で覆われ、さらに埴輪と呼ばれる土製品が整然と並べられていました。

 埴輪には、土管のような形状の円筒埴輪と、さまざまな物をかたどった形象埴輪があります。形象埴輪には、家や大刀(たち)・盾などの器財、人物・動物などの種類があります。この形象埴輪が並べられている状況は、王が行っていた儀式の様子を表しているという説があります。

 群馬県は、このような埴輪が全国的に見ても盛んに生産され、古墳に並べられていました。特に、群馬の埴輪を代表するものとして、国宝に指定されている「挂甲(けいこう)武人埴輪」があります。「挂甲」とはよろいのことで、この人物埴輪はかぶとをかぶり、右手は刀・左手は弓を握り、矢を入れておく靭(ゆぎ)と呼ばれる道具を背負うなど、完全武装している武人像です。太田市飯塚町の長柄(良)神社境内から出土したと伝えられ、現在は東京国立博物館に所蔵されています。

 また、群馬県の埴輪の特徴として馬形埴輪が豊富で、動物埴輪の中で最も多く作られました。馬形埴輪の中でも、鞍(くら)や轡(くつわ)といった装備品や鈴や杏葉(ぎょうよう)などの装飾品を付けた「飾馬」が多く見られます。

 武人や馬といった埴輪からは、武力的な権威や財力を示したり、神聖な場所である古墳を邪霊から守ろうとする意図などが想像されます。

(参考:挂甲をつけた武人埴輪(公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団ホームページ(外部リンク)))

古代東国の王者

『ぐん!とGUNMA』 第232号 2012年 8月15日

文化財保護課 諸田康成

 上毛かるたに「しのぶ毛の国二子塚」という読み札があります。この札は、群馬が全国でも有数の古墳県であることを表しています。
 「二子塚」とは、二つの山がならぶ前方後円墳を横から見て例えた呼び方で、群馬県には墳丘の全長100メートルを超える大型の前方後円墳が数多く存在しています。
 また「毛の国」とは、後の「上毛野」や「上野」につながる、本県を含む関東北部の地域の古い呼び名で、前方後円墳の分布が示すように古墳時代屈指の有力地域として位置づけられています。

 このような群馬の古墳時代を代表する前方後円墳が、太田市の天神山古墳で、5世紀の中ごろに築かれました。
 太田天神山古墳の特徴の一つは、規模の大きさです。墳丘の全長210メートル、二重に巡る堀の範囲まで含めると長さ364メートル、幅288メートルとなり、東日本最大の巨大前方後円墳です。
 さらに、遺骸の埋葬に使用された石棺も注目に値します。太田天神山古墳の石棺は「長持形石棺」と呼ばれるものです。これは、大阪府堺市にある日本最大の前方後円墳である大山(だいせん)古墳(伝・仁徳天皇陵)にも使われているもので、当時の群馬県地域と大和政権との密接な関係をうかがうことができます。
 畿内から遠く離れた東国にあって、規模も内容も誇れる太田天神山古墳は、まさに古代東国において最も権力のあった王者の墓といえるでしょう。

田んぼの歴史を考える

『ぐん!とGUNMA』 第230号 2012年 7月15日

文化財保護課 洞口正史

 一万年近くも前に、中国大陸のどこかで始まった「米」を作る技術が、海を越えて日本に伝わったのは、今から二千数百年前のこと。縄文時代から弥生時代に移り変わる時期のことと考えられています。以後現代に至るまで、日本人の主食は米であり続けています。

 昭和48(1973)年、高崎市下小鳥遺跡の発掘調査で、平安時代の水田の跡が見つかりました。とても珍しい事だったので、発掘を担当した考古学者も、それが本当に水田なのか、初めは半信半疑だったそうです。
 その後行われた高崎市日高遺跡の発掘調査では、下小鳥遺跡の経験を生かして、古代水田の調査が広い範囲で、積極的に行われました。その結果、浅間山の軽石に埋もれた水田と、弥生時代の村が見つかり、大きなニュースになりました。この調査をきっかけに、県内各地で、いろいろな時代の水田跡が続々と見つかり、農業史上の重要資料がたくさん発掘されました。これにより、群馬県は、日本の田んぼの歴史を考える、水田研究の中心的な位置を占めることになりました。

 実は、日高遺跡の周辺は、皇室に献上されたほどのおいしいお米「日高米」の産地です。近くの新高尾小学校の児童たちは、日高遺跡の調べ学習をしながら、自分たちで田んぼを耕し、収穫したお米を給食で食べています。そして今、日高遺跡では高崎市による史跡公園化事業が始まっています。
 いつか日高遺跡の公園で、日高米のおにぎりを食べてみたいですね。

縄文芸術の再発見

 『ぐん!とGUNMA』 第228号 2012年 6月15日

文化財保護課 石田真

 現代人の耳元を彩る耳飾り。それは縄文時代も同じでした。縄文時代の物は耳たぶに穴を開けて付ける「ピアス」式で、直径数ミリメートルから10センチメートル近いものまでさまざまなサイズがあります。粘土や石などを材料とし、赤く塗られたものも見つかっています。

 県内で縄文時代の耳飾りが発見された代表的な遺跡として、桐生市の千網谷戸(ちあみがいど)遺跡や榛東村の茅野遺跡が知られています。
 両遺跡から発見された耳飾りは、美術的・技術的に非常に優れたものであり、国の重要文化財に指定されています。
 千網谷戸遺跡からは、粘土を用いた直径9センチメートルを超える大型品も発見されており、そこには透かし彫りの技法を用いた優美な曲線による文様が描き出されています。とても数千年も昔の縄文人が作ったとは思えないほど、見事な出来映えです。
 しかも、千網谷戸遺跡からは、これらの耳飾りを作ったときの粘土の削りかすも出土しており、この見事な耳飾りが群馬で作られたことが分かったことも重要な発見でした。群馬のものづくりの歴史の1ページがここに刻まれています。

 縄文時代の耳飾りは、榛東村の耳飾り館をはじめ、県内各地の博物館や資料館などで展示されているものもあります。博物館を訪れて、縄文人の美意識の一端に触れてみてはいかがでしょうか。

(参考:榛東村耳飾り館(外部リンク)

歴史を変えた岩宿遺跡

『ぐん!とGUNMA』 第226号 2012年 5月15日

文化財保護課 津島秀章

 群馬には、どのくらい前から人が暮らしていたのかご存じですか?

 これまでの発掘成果から、おおよそ3万年前だと考えられています。
 この時代の人々は、年間平均気温が今より約7度も低い、寒冷な気候で生活をしていました。

 この時代は「旧石器時代」と呼ばれ、生活様式の上で二つの大きな特徴がありました。それは、現代社会を生きる私たちとは全く異なるスタイルでした。
 一つは、血縁関係をもつ複数の家族が集まり、一個の共同体として日常生活を共にしていたということ。もう一つは、動物を狩猟しながら、また木の実などを採集しながら移動生活を繰り返していたということです。

 実は、「日本にはこの時代に、まだ人はいない」と長い間考えられてきました。ところが、相沢忠洋(ただひろ)さんが、みどり市(旧笠懸村)の岩宿遺跡で、地表の黒土の下の赤土(ローム層)から人が加工した石器を発見したことによって、その常識が覆されたのです。くしくも、世の中が大きく変わろうとしていた終戦直後、昭和24年のことでした。この歴史的大発見によって、縄文時代より前にも、日本列島に人が暮らしていたことが明らかになったのです。

参考:岩宿博物館(外部リンク)

古代東国の文化と群馬県

『ぐん!とGUNMA』 第224号 2012年 4月15日

文化財保護課長 西田健彦

 日本では飛鳥・奈良・平安時代(7~12世紀)に、諸国が設置され、五畿七道の地域区分が整備されました。現在の東海・甲信・関東地方の国々は、都の東方にあることから「東国(とうごく)」とも呼ばれました。

 奈良時代から群馬は「上野国(こうずけのくに)」と表され、全国68の国の中でも、豊かな国でした。諸国は国力によって、大・上・中・下の4等級に格付けされましたが、平安時代の上野国は全国で13しかない大国の一つだったのです。
 歴史をさかのぼって「毛野(けの)」と呼ばれた古墳時代(3~6世紀)にも、群馬は大きな力を持っていました。全国の古墳の大きさトップ100のうち、群馬は奈良、大阪、岡山に次いで、4番目に多い数があります。また、太田市にある前方後円墳の天神山古墳は、東日本では第1位の大きさです。
 豊かな国力を背景に、国内ばかりでなくアジア大陸との交流も盛んであった群馬は、古代東国の中でも、ひときわ大きな文化の花を咲かせていたのです。

 これから始まる「古代ぐんまと東国文化」の連載では、原始古代の時代に、群馬の国づくりに私たちの祖先がどのように学習・努力・工夫をしたかを、遺跡等の文化財によってたどることとしていますので、ご期待ください。

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