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文化財保護審議会 平成30年度第1回開催結果

更新日:2018年10月30日 印刷ページ表示

1 日時

平成30年8月2日(木曜日)13時30分~16時00分

2 場所

群馬県庁第一特別会議室

3 出席者

戸所隆会長、村田敬一副会長、金澤好一委員、榊原悟委員、染川香澄委員、野田香里委員、右島和夫委員、宮崎俊弥委員

4 事務局出席者

北爪清教育次長、古澤勝幸文化財保護課長、青木道則次長
文化財活用係:齋藤英敏係長、井野千春指導主事、橋本淳指導主事、小林正主幹、長谷川博幸指導主事、小堀高広指導主事、今城未知文化財保護主事
埋蔵文化財係:桜井美枝補佐(係長)

5 挨拶

群馬県教育委員会教育長主催者あいさつ(教育次長代読)

6 委嘱式

7 会長・副会長選出

会長に戸所隆委員、副会長に村田敬一委員を選出

8 挨拶

群馬県文化財保護審議会会長会長あいさつ
副会長あいさつ

9 専門部会専門委員指名

10 開会

11 議事録署名人選出

議長が今回の議事録署名人に金澤・榊原委員を指名。

12 傍聴人の報告

事務局が、マスコミ取材1社であることを報告。

13 傍聴制限確認

事務局から、部会報告と審議事項については非公開、その他については公開とする提案がなされ、委員に承認された。

14 内容

報告事項

  1. 文化財保護審議会委員の組織体制について
  2. 平成29年度文化財保護課事業報告
  3. 平成30年度文化財保護課主要事業
    1. 事業の概要
    2. 文化財活用係の事業について
    3. 埋蔵文化財係の事業について
  4. 群馬県指定文化財の保存事業について
  5. 群馬県指定文化財の現状変更等について
  6. 国県指定等文化財数について

質疑

(議長)質問・意見があればお願いする。

(審議委員)聞いていてワクワクする気持ちになった。色々なイベントや、古墳を中心に興味を持っている人々が群馬県に多いのだなと思った。付け加えると、会長の言っていた、時代の変化に対応した文化財保護行政という事を考えると、文化という物が切り札となって、人々の気持ちを揺り動かして、それが現在に波及していくのだと思う。それを考えると、流れとして、文化財があって、イベントや発信をする。発信する時に、トップダウンの情報発信ではなく、ボトムアップの情報発信の流れというのがあるが、今はSNSなどもあり、受け手側の、文化財に興味を持っている方々の声を元に、そこから引き出される物をイベントなり発信につなげていく、声を拾う。訪れた方々の考えがどうなのかという事を元にすることが大事なのだと考える。毎年言っていることで、それにはターゲットの分析が重要になるのではないかと思う。アプリを作るにしても、それは車を持っている人々向けなのか、それとも車は持っていないけれど外から来ている人々向けなのか、あるいは群馬県に初めて来る人々向けなのか、あるいは何回も訪れている人々向けなのか。ターゲットを詳細に分析することによって今後に計画しているソフト、スマートフォンアプリの開発などにも活かされるのではないかと印象を受けた。

(議長)他にあるか。

(審議委員)2点質問と意見がある。
 1点目は、13ページ下の方の国指定、県指定文化財について、平成30年2月1日以降の(7)桐生倶楽部、これが市の指定になったために、国の登録有形文化財が抹消になったと、これが文化財の保護でどういうような違いが出てくるのか。なぜ指定になると国の文化財が抹消になるのか、ここが分からなかったので説明をお願いする。
 2点目は、大きな問題で私の意見も入るのだが、今まで文化財保護課の事業を色々報告してもらった感想で、群馬の文化財という事で仕方がないのだが、埋蔵文化財、考古史料というか、それから古代史の文化財、その辺に重点がおかれすぎているように思える。その辺が群馬の売りで仕方がないのだが、中世以降、中世・近世・近現代の情報発信、それらの時代の取り扱いにもっと目配りが必要になってきているのではないかと思う。
 意見としては、県の組織についてなのだが、文化財保護課の他に文化振興課がある。それから世界遺産課。これら関係部課所の棲み分けについてだ。歴博とかそういう施設、あるいは課との棲み分けについて。国の指定を見ていると、どんどん新しい物が出てきている。旧碓氷峠の施設だとか、臨江閣だとか。そういう、群馬県の比較的新しい近現代、そういう文化財や史跡に目を向けていく必要があるのではないか。

(事務局)1点目の登録と指定の関係だが、登録という制度は緩やかに守っていくという制度だ。なので、現状変更なども建物の場合で見える物の4分の3以上の変更になると許可ではなく届けでよいということで、所有者の意向を尊重しながら緩やかに守っていく形になる。それに対して指定というのは、国でも県でも市町村指定でも、強い規制をかけて守っていく形になる。文化財保護法でも、最初から国・県・市町村指定のものは登録の対象外とされ、それら指定されていない物の中でも文化財として守っていこうという物の中から登録される。その後、何らかの指定がかかると解除される決まりになっている。なので、守る強さの度合いは指定の方が強いということになる。

(審議委員)国指定になると県指定はどうなるのか。

(事務局)解除になる。

(審議委員)では、市町村指定は県指定になれば解除されるのか。

(事務局)そうだ。
 2点目だが、県の組織の棲み分けについて話すと、文化振興課の、特に東国文化推進室は古墳時代を中心とした、群馬の古代東国の中心地であった頃の事を情報発信するというのが主な業務になっている。世界遺産課は、世界遺産になった4資産、それらを総合的に守る。周辺地域も含めた世界遺産としての守り方に関する事をやっており、絹文化に関しても世界遺産課がやっている。古墳にしても上野三碑にしても、世界遺産、日本遺産にしても国の指定文化財になっているものの保存については当課でしっかりやっていくという事である。富岡製糸場や高山社では保存修理の事業をやっているが、世界遺産に関する保存事業は世界遺産課で予算措置をするのだが、その執行や指導助言については当課の方で実施している。そんな役割分担をしている。
 新しい時代のものも力を入れるべきだということなのだが、実際には当課ではどの時代、どのジャンルに関わらず、しっかり保存活用を図っていこうという考えを持っており、色々な面で情報発信に心がけているところだ。

(審議委員)よく分かった。文化振興課の東国文化、世界遺産課の事業はちょっと新しい方だと思うのだが、その辺の重なりが見られるのではないか、その辺を上手く分配しながら、課長が説明したように、天然記念物、植物などを含めた全体的な群馬県の文化財を発信していって欲しいなというのが希望である。

(議長)ありがとうございます。他にあるか。

(審議委員)今後予定されているスマホアプリ等、あるいはホームページ、報告書の中にもホームページアクセス数が上がっているが、広報の基本としては受け手側にとっては、ホームページやスマホに直接来る方はいなくて、流れとしてはSNSからホームページ、SNSからスマホという流れなので、今後スマホアプリ開発されるに当たってSNSの活用は欠かせないと思っている。

(議長)他にあるか。

(審議委員)10ページの平成30年度の古墳学習プログラムについて質問を含めた意見なのだが、授業時間に余裕のないことを理由に取り上げてもらえなくて、できたものをどう位置づけていくかというのが重要だと思う。例えば教育センターがあるが、教科研修の講座に位置づけるとか、または教科の指導主事の先生方に直接聞いてもらう。特に義務の場合には本庁があって、教育事務所があるから、教科担当が各事務所にいるが、そういった人々に行かない限りいくら作って使ってくれと言っても、ほとんど使う実態はないだろう。
 私も尺八を40年もやっているのだが、伝統文化ということで平成25年から楽器に触れさせるというようなことをやっているが、群馬県下をみても邦楽を出た音楽教員はゼロだから、ほとんど動いていない。実際に演奏依頼が来るのは非常に個人的なもので、校長からは全くない。非常に興味を持っている教員から電話が来て一時間頼むよと、邦楽は一時間ではどうにもならないのだが、それも一学年じゃなくてそのクラスだけというのが実態だ。
 ましてや今は郷土学習をやっている教員は皆無になってきた。なので、一般論として作って、やってくれと言ってもだめなので、ある程度、指導部局と具体的にどうするかという、もっと言えば年間何時間やってくれと言わなければならないと思う。これも多分小中の学年によっても違うと思うし、高校もあるが、具体的な展開としてどの学年を対象にしているのかなど、具体的な事があれば教えてほしい。

(事務局)古墳学習プログラムだが、ターゲットは小学校6年生だ。すでに中学生向けのものに関しては、文化振興課の方で東国文化副読本を作成して、毎年中学一年生全員に配っている。それに基づいて指導案等も作成して公開授業もやっている。それがあった関係で当課では社会科見学で古墳に行く際に、ただ教員が古墳に連れて行くというのではなく、何をどう感じさせるのか、何を体験してもらうのか、こういうことが出来るよ、こういう所に着目をしてほしい、事前学習としてこういった事が必要ではないか、というようなことで教育現場で活用してもらいたい。そういう教材を作ろうという事を考えている。なぜかといえば、観音山古墳の見学の統計を取ってみると、圧倒的に小学校6年生だ。しかも古墳の学習というのが、4月の下旬位なのだ。社会科の歴史の学習を4月からはじめて、早いところでは連休前、遅くても連休明けくらいには実施をしている。そうなると年度当初の非常に忙しい時期に授業が終わってしまう。実際に見学に行くのはその時期からずれてしまうことが多い。そこで、実際に連れて行く時にどうしたらいいのか、そんなことを計画として考えている。この教材に関しても、県の教育センターの方で作っている、はばたけ群馬の指導プランというものに則った形で、なるべく多くの学校に見学の際に使ってもらおうと考えている。今年度まず作ってみて、実際にいくつかの学校でモデル授業をやってもらって、そういう事を通して各学校の先生方に周知を図っていきたいと思う。

(議長)時間もない中で恐縮なのだが、14ページの太刀、脇差が県外流出した。これは相続に関わっているのか。

(事務局)文化庁が買い上げを行い、その結果として国有物品になった。したがって相続等ではない。

(議長)分かった。相続で、子供が東京とか大都市にいる場合が多く、そちらに移ってしまうとか、そういう事が結構おこっている。群馬とか地方から預金がどんどん大都市に移っているというのが最近話題になっており、そのあたりも文化財保護という視点から見ていく必要があるのではないかと思った。

 次に進みたい。報告事項はこれで終了する。これより非公開となるので、報道機関の方及び傍聴人は退出をお願いする。

審議事項

(議長)それでは教育委員会から諮問のあった指定文化財候補の審議に入りたい。まずは事務局に説明をお願いする。

(事務局)(諮問読み上げ)
 これに対し、資料3ページのとおり、平成30年6月29日付けにて、群馬県文化財保護審議会より、史跡・考古部会あてに、調査の依頼を行った。
 調査報告については資料4ページ以後のとおり、史跡・考古部会から報告を受けている。その内容について事務局より説明をする。

(事務局)それでは部会の回答から読みあげたい。(回答読み上げ)

それでは後閑3号墳の方から説明する。
5ページ平成30年度群馬県文化財指定候補、名称及び員数、後閑3号墳、1基。
所在場所、安中市下後閑字山王前209番。
所有者、安中市。
概要
1)由来及び沿革、後閑3号墳は、安中市下後閑字山王前に所在し、九十九川左岸の沖積低地に立地する。標高は、約182メートルである。本古墳は、『上毛古墳総覧』に「後閑村三号墳」として掲載されている。周辺では同時期の集落跡が確認されており、広範囲で古代の水田跡も確認されている。平成4年度に圃場整備事業に伴い、安中市が発掘調査を実施した。石室の構造が平面「T字形」であると判明し、保存状態が良好であることから、平成5年2月に現状保存が決定した。平成9年に公有地化され、墳丘を復元し、平成12年9月27日には、古墳の重要性から安中市指定史跡に指定された。
2)内容、直径約20メートルの円墳である。構造は、墳丘部、基壇部、造り出し状施設、周堀で構成される。墳丘は、高さ約1.7メートルで遺存していたが、本来は約2.2メートルであったと推定される。墳丘には葺石が施されている。円筒埴輪、人物・馬形・家・盾等の形象埴輪が出土している。
 主体部は、横穴式石室で全長5.4メートル、玄室長1.0メートル、玄室幅2.5メートル、高さ1.7メートルで、他にあまり例をみないT字形を呈する。自然石(川原石)を積み上げて構築されており、羨道から玄室の壁面には、赤色顔料が塗彩されている。石室の背後は、大小の石で補強する「裏込め」が施され、外側を葺石状の「裏込め被覆」で押さえ、さらに盛り土で補強するという手法が取られている。石室からは、鋳銅製三輪玉、銅製鈴鏡、水晶製切子玉・碧玉製平玉・管玉、石製紡錘車、馬具など充実した副葬品が出土している。古墳の構築年代は6世紀初頭と考えられる。
 同様の手法で構築された横穴式石室は、南方約2kmにある安中市簗瀬二子塚古墳(前方後円墳、墳長約80メートル)、西方約3kmにある同下増田上田中1号墳(円墳、直径約20メートル)である。この三墳は、石室構築技術に加えて、石室内から出土した副葬品にも共通性が認められる。これらのことから、本墳は、下増田上田中1号墳と共に、簗瀬二子塚古墳に葬られた首長を支えた人物の古墳と考えられる。古墳が所在する九十九川流域を含む碓氷川左岸地域は、近畿地方から信濃地域を経て上毛野地域、さらに関東地方へと入る内陸路の玄関口にあたる。横穴式石室という新しい埋葬形式を関東地方でいち早く取り入れるなど、これ以降の上毛野の要の地域になっていくことをよく伝える古墳である。
3)種類と数量 古墳 1基
4)指定理由 後閑3号墳は簗瀬二子塚古墳、下増田上田中1号墳とともに、関東地方で、横穴式石室を導入した最古段階の事例であり、新たな埋葬形式の導入の様相を知ることができる重要な古墳である。また、本古墳は、当時の中心地である近畿地方から関東地方に至る内陸路(のちの東山道)の玄関口にあり、当地方でいち早く横穴式石室を採用した集団の支配者層の古墳である。近畿地方との交流の様相もよく示しており、指定するに十分な歴史的意義を持っている史跡である。
[指定基準]群馬県指定史跡名勝天然記念物の指定基準第1号の(1)に該当する。
 第6 群馬県指定重要文化財の指定基準1 史跡 (1) 貝塚、集落跡、古墳その他これらに類する遺跡。
 続いて6ページ、古墳の位置図を示している。安中市は群馬県の西部に位置する。
 次のページに詳細な地図と位置図がある。今回の指定は田1筆分指定している。1筆の中の古墳で、安中市が買い上げ、安中市指定にした。今回このまま県指定にしたいと思う。周堀の1部がはみ出ているが、発掘調査された本体部分に関しては、この筆に収まるという事で安中市が指定している。
 後閑3号墳は、圃場整備ということで調査がされた。元々は圃場整備で記録保存のところが、古墳が出てきて状況がいいということで残された。下の写真は、石室の赤色顔料の出土状況なのだが、報告の添付資料の簗瀬二子塚の写真があるが、これと同じ顔料であると考えられている。10ページ上からの写真になる。南開口部で今回石室が平面T次形、羨道が長く玄室が小さい形になっている。11ページは平面図、赤色顔料、先程の写真なのだが、簗瀬二子塚は全面に残っていたが、後閑3号墳については赤く囲まれている所に残っていた。12ページ西からの写真は、羨道が長くて玄室が小さいT字型がよく分かる。出土した物が馬型埴輪と楯と人物埴輪、女性の頭と腕の一部が出てきた。男性は挂甲武人埴輪である。家型埴輪は家の屋根の部分と鰹木の部分が出ている。現況であるが安中市が整備をしており、マウンドも復元されて中に入れるようになっている。

続いて14ページ下増田上田中1号墳について説明する。
名称及び員数 下増田上田中1号墳 1基。
所在場所、安中市松井田町下増田字上田中247番1、同547番3、同547番2の一部。
所有者、安中市。
概要
1)由来及び沿革 下増田上田中1号墳は、安中市松井田町下増田字上田中に所在し、九十九川の支流である増田川右岸の段丘上に立地する。標高は、246~247メートルである。本古墳は、『上毛古墳総覧』(昭和13年)には記載漏れで、発掘調査にて発見された。北西に隣接して2号墳が存在する。平成7年度に旧松井田町(現安中市)が発掘調査を実施した。石室の構造が平面「T字形」であると判明し、保存状態が良好であることから平成8年3月に現状保存が決定した。発掘調査後、埋め戻され、平成11年に公有地化され、平成24年11月27日に安中市指定史跡に指定された。
2)内容 直径約20メートルの円墳である。構造は、墳丘部、基壇部、周堀で構成される。墳丘は、後世の耕作等により、葺石の1~4段を残し、上部は削平されている。葺石の使用石材は、大小様々な大きさの川原石が使用されている。周堀は幅3~4メートルの規模であるが浅い。墳丘は、増田川の蛇行による浸食作用の影響で北東から南東側は崩落している。墳丘からは、円筒埴輪及び朝顔形埴輪が出土したが、形象埴輪は出土していない。主体部は、横穴式石室で、全長6.9メートル、玄室長0.9メートル、玄室幅2.4メートルを測るが、高さ不明で、他にあまり例をみないT字形を呈する。自然石(川原石)を積み上げて構築されており壁面の赤色顔料は確認されなかった。石室の背後は、大小の石で補強する「裏込め」が施され、外側を葺石状の「裏込め被覆」で押さえ、さらに盛り土で補強しており、構築の手法は、東南方約4.5kmにある簗瀬二子塚古墳(前方後円墳、墳長約80メートル)、東方約3kmにある後閑3号墳(円墳、直径約20メートル)と共通する。石室からは、鉄刀、鉄鏃、鉄刀子、碧玉製管玉、滑石製切子玉、ガラス小玉、須恵器などが出土している。古墳の構築年代は6世紀初頭と考えられる。安中市簗瀬二子塚古墳、後閑3号墳とは、石室構築の手法に加えて、石室内から出土した副葬品にも共通性が認められる。本墳も、後閑3号墳と同様に、簗瀬二子塚古墳に葬られた首長を支えた人物の古墳であると考えられる。本墳を含むこれら三墳が所在する碓氷川左岸地域は、当時の中心地である近畿地方から関東地方への内陸路(のちの東山道)の交通要衝になっており、さらに、横穴式石室という新しい埋葬形式を関東地方でいち早く取り入れるなど、これ以降の上毛野の要の地域になっていくことをよく伝える古墳である。
3)種類と数量 古墳 1基
4)指定理由 下増田上田中1号墳は、簗瀬二子塚古墳、後閑3号墳とともに横穴式石室を導入した最古段階の事例であり、新たな埋葬形式の導入の様相を知ることができる重要な古墳である。また、本古墳は、当時の中心地である近畿地方から関東地方に至る内陸路の玄関口にあり、当地方でいち早く横穴式石室を採用した集団の支配者層の古墳である。近畿地方との交流の様相もよく示しており、指定するのに十分な歴史的意義を持っている史跡である。
[指定基準] 群馬県指定史跡名勝天然記念物の指定基準第1号の(1)に該当する。
 第6 群馬県指定重要文化財の指定基準1 史跡(1) 貝塚、集落跡、古墳その他これらに類する遺跡。
 それではまた15ページから説明をする。位置関係を確認する。碓氷川左岸の段丘に簗瀬二子塚がある。九十九川と増田川の段丘上にあるのが下増田上田中1号墳になる。段丘上という事で増田川に侵食をされていて、発掘段階で4分の1ほど侵食により消滅をしていた。次のページに後閑3号墳と同様に今回の指定範囲を入れてある。圃場整備で調査されて、記録保存となるところがこちらも残りが良いという事で保存されることとなった。こちらの547-2に関しては史跡地の範囲と十分考えられるという事で一部を安中市で買い上げて、指定にした。17ページ竹藪の後ろ側が増田川で、墳丘の北側が既に失われている。次のページで増田川との位置関係を示した。同じく1号墳の西側に2号墳があったのだが、こちらは記録保存になっている。1号墳は、T字形の石室があったり、記録ではなくそのまま残そうという事で、安中市が努力してくれた。下の方の写真でT字形の狭い玄室の向こうに羨道がある。石室の後ろは、裏込め被覆で構築されている。19ページでは正面からの写真になっている。後閑3号墳と違って非常に確認面が浅かったようで、墳丘の上の方が大分耕作によって失われていた。葺き石の下から3・4段が残っているということで、こちらの方は石室の方も天井石がないと分かっている。下の写真は朝顔型埴輪、この古墳から出てきた埴輪だ。次のページに報告書の図面を載せた。最後、現況の写真だが後閑3号墳に関しては復元をされているのだが、こちらは埋め戻している。地面の下に当時の状況のままで残されている。いつでも整備をしようと思えば出来るような状況で保護をして安中市指定にしている。

(議長)ありがとうございました。右島委員から何か補足があるか。

(審議委員)補足をさせてもらう。二つの古墳の持っている価値、そういう部分を簡単に説明する。その中では、簗瀬二子塚古墳というのが報告の中で国史跡になったと出てきたが、それと一体の関係で造られていると考えられる。出土遺物とか石室の特徴からほぼ同時期に造られているというのが分かる。その上で最初に東日本、関東に登場する横穴式石室であるということで、その前は縦穴形の埋葬施設になるから、全く新しい技術体系と築造原理を持っていないと造れない物になるから、群馬に元々いた人達では造れない。新しい専門家が入ってきていると、その時に簗瀬二子塚古墳の石室の構造と比較していくと非常に共通する部分がある。外から入ってくると1段降りて、更に1段降りると埋葬する部屋になるのだが、石の積み方を見ていくと大きな区分点があり、1段降りる段の所で石の積み方の目地が変わる。石室を造る時に、工事の大きな区分を二段階で造っている。本体の石を積み上げる時に、そのままではすぐ崩れてしまうので、積むのと同時に裏から補強をしている。裏込めと言うが、そういう手法をしている。補強した一番最後の所を石垣状にして押さえるやり方だ。これは築造の手法になるので、造る技術、くせを持って造っていくので、安中の国史跡になった古墳、石室を造った技術者が、後閑3号と下増田上田中を造るというのが非常によく分かる。これが一番最初という意味は何かというと、ちょうどその頃に近畿地方でいうと大王、畿内の最有力者層が横穴式石室を埋葬施設として採用する時期に当たる。九州はもっと早く朝鮮半島から横穴式石室が入ってきて定着しているのだが、ヤマト王権が公式採用する時期に、東日本の中で非常に有力だった地域で関係がある中で出来上がったのだろう。そういう意味では簗瀬二子塚古墳と合わせて下増田上田中と後閑3号をセットで考えると、より背景が分かってくるというところで、本当は、簗瀬二子塚古墳の指定で、システムで指定してもらうのがいいかなと思っていたが、そうはできなかったけれど、県指定にして、より積極的に保存と活用という中で位置づけていくと、より有効な活用にも繋がるし、価値というのがはっきり分かると考えている。

(議長)ただいま説明があったが、何か質問等あるか。

(審議委員)T型の玄室についてはどういう埋葬方法をとったのか。

(審議委員)T字型にするのは、石室の入り口を南にするというセオリーがあり、簗瀬二子塚の格下の人々なので、あまり大きい石室を造らないという中で、群馬は古くから東枕という地域の伝統がある。近畿地方は最初から埋葬は北枕だ。簗瀬は最初から大きい石室なので、奧に東西に置くことが出来るのだが、小さいので埋葬する奧の所だけを地域の東枕にする習慣にこだわったのだ。そうしないのはどうしたかというと、セオリーを更に破って西に開口させる石室を造って、奧の所は小さくてもそのまま東枕に出来るので、そういうやり方を取っている物も多い。これはかなり創意工夫をして、元々持っていた東枕の習慣を守ったようだ。

(審議委員)関連してもう一つ、この横穴式の羨道を使って遺体をそこに葬ったということでいいのか。

(審議委員)そうだ。

(議長)他にあるか。

(審議委員)今の北枕の話すごく面白い。京都に生まれたので部屋の模様替えとか、引っ越しの時、必ず北じゃない方に寝てって言われてきた。そういうことは一般の人に話をする時にすごく地域性が出て面白いと思う。
 質問なのだが、石が自然石、河原の石という事なのだが、どちらからというのはわかっているのか。

(審議委員)さっきの地図で、河原の石を使って石室を造るという墓づくり集団なので、川のすぐ際に古墳を造る場所を選んでいる。

(審議委員)その場の河原か。

(審議委員)すぐ脇の河原から石を取ってくる。ここで言うと簗瀬二子塚は碓氷川の石を使う。後閑3号は九十九川のすぐ縁。

(審議委員)それは今もこの位のクラスの石がそこに行くとあるのか。

(審議委員)そうだ。

(審議委員)そういうのも一般の人は説明に使うとすごく興味をひかれる。今の状況と繋がっている部分は、副読本等に掲載する時にはぜひ一緒に情報を知らせてあげると、そういう所から一般の人は入って来やすいのではないか。

(審議委員)発想は効率的に造るというのがあるから、古墳を造る場所選定に、場所として墓地にするのに理にかなっているというのが1つ条件になる。造るための材料が手近に得られる条件の場所を選ぶのも鉄則だ。

(審議委員)鉄則をぜひ書いてもらいたい。

(議長)他に。

(審議委員)2つあるのだが、1つは近畿の首長との関係。想像の段階で確証というのはないと思うのだが、右島委員の見解、つまり近畿に従属した首長だったのか、あるいは対抗できるような、先程の東枕、群馬の1つの特徴のあるT字型を持っているという事からして、独立的な首長であったのか、どういうような考えかというのが1点。
 それから2点目は、顔料というのに注目しているのだが、片方は顔料が保護されていて、もう1つの方は無いということだった。顔料があると無しというのは、どのような首長の地位に関係しているのか。簗瀬と3つがセットになる非常に興味のある、その辺が価値のあるということで説明があったのだけれども、一番大元の簗瀬の方は顔料がある。そういう事で2点。
 今の話で非常に価値があって指定するのに十分であるという意見なのだが、2点お願いする。

(審議委員)まずは近畿の勢力、ヤマト王権と地域勢力の関係だが、基本的に古墳を造る、前方後円墳、同じスタイルの墓を造るというところでつながりを持っていることで、同じスタイルの墓を造るという意識で動く。日本列島全体がなるというのではなくて、前方後円墳でいうと、最初の段階でいうと北が宮城、山形、少し時期が経ってくると岩手の南寄りの地域まであるが、そこから先は古墳は造られない地域。南でいうと鹿児島まで範囲が、情報、技術の発信は奈良、大阪を中心とした地域と考えて間違いない。そのあと歴史のプロセスでいうと、より影響力の強い支配を施行していくというのが分かり、それの完成形が律令制。日本列島の主要地域全体を一元化していく中央集権的な体制に持っていく。先程言った奈良、大阪を中心とした京都、畿内という地域にヤマト王権がいて、そこが全体を直接支配しようという方向へ向かっていって、律令制という中で完成していくわけだが、ゆるやかな支配から徐々に影響力が及んでくるという流れになるわけだが、大きなより直接的な方向に動き始めるのが簗瀬二子塚などがでてくるような時期。もうちょっと前なのだが、その時期から直接的な影響力を及ぼすという方向に動いていく。
 それの一番大きな理由が、内陸の交通体系によって、陸路によってネットワーク化するということが完成していく。馬を導入することによってネットワークが完成していくので、強い影響力を持つことが出来る前提条件になるわけだが、群馬だとそういう流れの中で、簗瀬二子塚のすぐ北側が東山道駅路の通過点になるが、馬の導入が5世紀後半の段階で明確にはじまっていくので、明らかに簗瀬二子塚古墳の場所は、内陸のルートで関東に入ってきた玄関口になるので、そこの所を押さえるという新しい動きの中でみていくことが出来るという意味で、より直接的なつながり、より影響力を及ぼしていく動きの非常に顕著な所であるということだ。

(議長)時間的に厳しくなってきたが、特に何かあるか。そうであれば今説明いただいた後閑3号墳及び下増田上田中1号墳の2件について指定することが適当であると答申してよいか。
 全員一致で後閑3号墳及び下増田上田中1号について指定することが適当であると答申する。
 それでは最後に教育委員会に答申案を配ってもらうので説明をお願いする。

(事務局)(答申読み上げ)

(議長)細かい文言については部会長に一任する。よければ8月の教育委員会に答申する。異議無しという事で答申する。

16 専門部会等報告

17 閉会

16時00分 文化財保護審議会の閉会となる。

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