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日本を世界をリードした群馬県の人

更新日:2011年3月1日 印刷ページ表示

 明治期以降、蚕の研究や飼育技術の改良は、国や県などの公的な研究機関で行われるようになりましたが、それ以前は、民間のいわゆる先覚者に委ねられていました。
  養蚕県である本県からも、全国に誇り得る代表的な蚕書やその著者、養蚕技術の改良と普及に尽力した指導者、蚕種の輸出を試みたパイオニアなど、多くの先覚者が輩出されました。この先覚者たちは、その時代において、日本を、世界をリードしました。
  群馬が誇る先覚者の何人かを、簡単に紹介しましょう。

田島弥平(邦寧)

 文政五年(1822年)に現在の伊勢崎市境島村に生まれる。蚕種製造と販売を業とし、明治5年(1872年)には、島村勧業会社を設立し、副社長となる。明治12年(1879年)には、蚕種を携えてイタリアに渡り、直売を試みる先進的な事業家であった。また、「清涼育」という飼育法を確立し、明治5年(1872年)に「養蚕新論」、明治12年(1879年)に「続養蚕新論」を著して高い評価を得た。「清涼育」は、火力を努めて使わず、自然の気候により飼育する方法で、飼育日数はかかるが、失敗の少ない飼育方法であった。また、弥平の養蚕に対する態度は、極めて合理的、科学的で、その当時の俗信を一蹴するものであった。

高山 長五郎

 天保元年(1830年)に現在の藤岡市高山に生まれる。自ら研究を重ね、「温暖育」と「清涼育」の折衷育である「清温育」を完成した。明治3年(1870年)に高山組を作り、門弟の中から授業員を選び、各地を巡回させて養蚕法を指導させた。その後、養蚕改良高山社と名称を改めるとともに、学校としての組織を整える。我が国最初の蚕業学校である。長五郎没後も高山社は発展を続け、全国に授業員を派遣し広く普及活動を行った結果、「清温育」は、明治22年の農務省蚕糸試験場の飼育標準表に取り入られるなど、明治末には、全国の飼育法の主流となっていった。

永井紺周郎・いと夫妻

 天保2年(1831年)に現在の利根郡片品村針山に生まれる。針山は、県北部の山間部にあり、夏でも冷涼で蚕病が多発した地帯であった。そこで、紺周郎は、炉に松などの太い薪をくべ、もうもうと煙を出す「温暖育」の一種である「いぶし飼い」を開発、好成績をおさめた。この評判が広まり、各地から教えを請うものが多く、紺周郎も遠くまで出向いて、飼育法を指導した。紺周郎没後も、妻いとは、永井流養蚕伝習所において、各地の生徒を巡回しながら指導を続けた。県北部の各地に建てられた夫妻に対する報恩記念碑は、いかに夫妻が当時の人々に受け入れられていたかを物語るものである。

馬場 重久

 寛文3年(1663年)に現在の北群馬郡吉岡町に生まれる。医業の傍ら養蚕業の改良に力をそそぎ、30年かかって積み上げた実践結果と理論をまとめて一冊の本にした。これがわが国の蚕書として著名な「蚕養育手鑑」である。この本は、私塾、寺子屋の普及を背景に、商業出版として初めて出版された養蚕技術書で、科学的、研究的態度で記述されたものであった。

吉田 友直(芝渓)

 宝暦2年(1752年)に現在の渋川市に生まれる。生家は、半農半商であったが、後に農業に意をそそぎ、中国の農業技術書に書かれた理論に基づいた農業と養蚕の実践を試み、研究を重ねて、着々と自説を生み出していった。寛政6年(1794年)に刊行された「養蚕須知」は、師である京都の儒者平山旭山の意志を継いだものであるが、「養蚕秘録」上垣守国著1803年刊、「養蚕絹篩」成田重兵衛著1813年刊と並び、江戸時代における蚕業技術に関する記録は一応これらの著書によって集大成されたと言われるほど、後世にまで名を残した。