県立高崎中学校を4年生で卒業し、日立鉱山鉱業技術員養成所に入所する。卒業後、宮城県の日本鉱業大谷鉱山事業所に勤務するが、やがて戦争で出兵することに。戦後の昭和21年、セレベス島から復員して実家へ帰った時、すでに両親は亡く、6人の弟妹に引き止められて家業のとび職を継ぐことになった。会社員でいるよりも、請負人となって独立するのも悪くないと考えた。
黒川家は記録で確認されるだけでも、明治初年よりとびの頭(かしら)を継いできており、黒川さんで3代目。とび職は足場などの仮設工事、木造家屋の基礎工事、組み立て、家屋曳き、解体工事、土塀の下地作りの小舞(こまい)かきなどでその技能を発揮してきた。
「いわゆる何でも屋です。昔はお店(たな)の祝儀・不祝儀全般を取り仕切っていたんです。地域社会に密着していろいろな場でリーダー的役割を果たしていました」。しかし現代建築も様変わりし、土壁で作る住宅がなくなり、クレーンの導入など仕事が機械化され、それに伴って黒川さんは昭和39年、有限会社に組織変えするとともに、仕事を杭工事専門に絞って行うようになった。
取得した技能士の数は驚異的
「杭を打つということはとびの本流であるという信念があります。常に縁の下の力もち。見えないところの基礎杭打ちに徹するのが、とびの頭(かしら)としての矜持の姿勢ではないかと考えました」。
仕事がよりスムーズに、もっとも良い方法で運ぶためにと、黒川さんが取得する免許の数は計り知れない。とび職業訓練指導員、玉掛技能士、起重機運転士、とび1級技能士、1級土木施工管理技士、2級造園施工管理技士、2級建築士など、勉強熱心さと仕事に対する意欲がうかがえる。そしてさらに、とびとはこんなにもさまざまな事柄にかかわる、奥の深い職種であることを改めて知る。
「とびは3Kの代表と見られていて、今はなり手が少ないのが残念。労働は美しい、と心から思うのだが。プライドをもって、体を使って仕事をしようとする職人がいなくなった」。とび職の発展を願う黒川さんならではの心境だ。
建設公害にもすばやく対応
昭和50年ごろ、杭工事が建設公害の一つとして社会問題になった。騒音、振動、粉塵発生などの問題が起きたのだ。黒川さんはいち早く新工法のプレボーリング、セメントミルク、回転ミルク工法などを導入、さらに工夫と改善を加え、解決に努力を惜しまなかった。
生産性、能率向上への多大な貢献が認められ、県内の上越新幹線工事の高架橋の基礎杭打ち工事にも参加している。
業界では関東とび職連合会理事、県ウインチマン協会会長、日本ウインチマン協会副会長、日本クレーン協会群馬支部長、県とび工業連合会監事などを歴任、常に要職にあって業界を支えてきた。
「高崎中学では野球部に所属、野球が大好きなスポーツマンでした。やはり健康な体であることが大切ですね。日本鉱業での仕事も役に立っています。掘ること、運ぶこと、それに地質の知識もそこで得ました」。
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杭打ち専門機も 時代とともに大型化 |
各種の講師とテキスト改訂にも参加
昭和39年、日本ウインチマン協会副会長に就任、4期8年在職中クレーン・デリック免許取得の講師として自らも率先学習した。合格率90%以上という好成績を上げ、会員の技能向上に尽くした。
技能検定にとび職が導入されるとともに、検定委員として普及と受検者増大に努力した。その他、玉掛け技能講習講師、各種作業主任者技能講習講師、小型移動式クレーン運転技能講習講師など活躍の場にいとまがない。
また、日本とび工業連合会のとび職技能検定受検用テキスト「とび作業の基礎知識」の改訂にメンバーとして加わり、昭和63年、時代に即した新しいテキストが出来上がった。昭和48年には生死をさまよう大病をし、社長を長男に譲ったが、その後無事に回復、長男と共に会社経営に打ち込みながらの要職の歴任は、地域社会に貢献しようとする誠意と情熱を感じ、心引き締まる思いだ。
とびは一生かけるに値する魅力的な仕事
最近では平成6年まで、建設安全衛生管理アドバイザーとして相談や指導を行っていた。現在は安全委員として各工事現場をパトロール、労働災害防止安全衛生活動活性化に精力的に活動している。
また、昔仕込まれた木遣りの保存にも力を注ぐ。なんとか木遣りを残したい一心で、自分でテキストを制作、出版した。しかし微妙なふし回しはやはり直接教えなければ伝わらない。「とびなどの専門工事業は一つの文化だと思う。木遣りも大切な日本文化なのでぜひ残していきたい。とびは本来魅力あふれる産業で、人が一生かけて従事するだけの価値があるものだと信じる」。やはり信念の人であった。