「今、この年まで現役の和裁教師として働いていられるのも、すべて兄さんのおかげ。感謝してもしきれませんね」。7人兄弟の真ん中に生まれ、11歳で母、15歳で父を亡くした田部井さんにとって、女の身だしなみのひとつとして学んだ裁縫術を生活の糧として高め、生きがいとして育てるきっかけを作ってくれたのが、昭和19年に戦死した2つ年上の兄だった。「父を亡くし、生きるために工場勤務も辞さないと思っていた私に、和裁で身をたてろ、と助言してくれたのが兄だったんですよ」
子供を抱えて離婚 生きるために選んだ和裁の道
国民学校や女学校の和裁教師としての経験を積んだのち、昭和21年に結婚した田部井さんだったが、翌年長男を出産直後、離婚。昔とった杵柄を最大限に生かし、太田市に田部井和裁教室を開くまでに、そう時間はかからなかった。戦後間もないころでもあり、子供を抱えての生活は、並大抵のことではなかっただろう。実際、「生きるためにがむしゃらに働いてきた」と昔を懐古する。
昭和30年代には女性の習い事の筆頭にあげられていた“お裁縫”。田部井和裁教室も昼夜を問わず、生徒が出入りし、50人以上の教室生を抱える時代もあった。現在は主婦を中心に独身女性を含む7人、と激減しているが、「みなさんなかなか熱心な方ばかり」と学ぶ姿勢を褒め、田部井さん自身、77歳の今も現役を貫く。
がむしゃらに働いてきた毎日に、余裕が生まれ、子供も独立したころから、チャレンジ精神が一気に花開き、昭和45年の全日本洋裁技能コンクールでは銀賞に輝いた。昭和47年には、洋裁1級技能士検定に合格。「たとえ、腕はよくても資格がないと、やはりイザという時に弱い、ということを実感してきた」という厳しかった人生に、確かな自信が加わった。
ラインを美しくみせる採寸法とアイデアあふれるニューキモノ
男並、女並と決められていた寸法に、洋裁の技法を応用した身体に合う着物の採寸法を取り入れ「女性のやわらかい身体のラインを美しく引き出す着物を生みだすことができた」と喜んだのもそのころだ。この努力の結果、昭和45年の第19回全日本洋裁技能コンクールで銀賞を獲得し、うれしい勲章がさらに加わった。昭和52年には設立されたばかりの職業技能士連合会に入会し、今まで以上に技術を磨き、後進の指導にも力を尽くす生活がスタートしている。
生活に俄然、余裕がみられるようになるころから、田部井さんの中では、小さな疑問や研究心を起爆剤として和裁の世界に新風を吹き込む、画期的なアイデアが次々と考案されるようになった。
その先陣をきったのが、二部式着物の発案だった。昭和60年代に入ったころのことで、「着物人口が年々減り、タンスに眠る着物がどんどん増えていく時代でした。着物が大好きな私は、どんな時でも着物を着ていたい、と無邪気に願い、そんな気持ちから手軽な二部式を思いついたんですよ」。きっかけは何気ないことだったが、「愛着のある着物にハサミを入れ、裁ち切る時は、さすがに度胸が要りましたっけ」と苦笑する。
上衣を下衣に分かれ、洋裁の立体感覚をうまく生かし、個々の体型にぴったり合わせられるのが、二部式着物の特徴で、「着付けを全く知らない人でも手軽に着られるのが何よりの魅力」と発案者だけに、さすがに力がこもる。
平成8年に実用新案を出願し、特許をとった介護寝間着も、日常で目にした風景が原点になったものだ。友人の病気見舞いに行き、並びのベッドで家族が大変な思いで着替えをさせているのを目のあたりにし、「たとえ長期療養していても、手足が不自由な患者でも、簡単に脱いだり着たりができれば、どんなに本人も周囲も助かるだろう」という発想から立案。衽(おくみ)下がりより袖口までソフトファスナーで開口部を作ったことで、着脱が容易となった寝間着が完成し、着用者からも感謝の声が届いているという。
注目される指導者としての資質 グランプリ優勝者の育成
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| 今も和服一筋、現役を貫く田部井さん |
昭和22年に和裁教室を開設して以来、育てた生徒は1,000人を下らない。また、昭和62年から県和裁技能士会会長を6年間務め、技能グランプリ出場選手を指導して、4回の入賞と2年連続優勝という快挙を成し遂げた指導力は、全国から熱い視線を集めた。その経験を生かして、技能検定準備講習を実施し、毎年30人以上の合格者を輩出している。
現在は県和裁技能士会相談役として各種の講習会や研修会を企画し、講師として幅広い経験に基づいた指導力を至るところで発揮している。