父を継ぎ2代目棟梁に
生方さんは宮大工の家に生まれた。「体がそのまま道具のような人だった」と父親を回想する。父親の仕事を継ぎ、厳しい職人の世界にはることへの不安はあった。気持ちの揺れ動いていた少年は、伊勢崎工業高校へ進んだ。そして修学旅行で奈良を訪れたことが、少年の意思を決定づけることになる。東大寺の南大門の荘厳な美しさにくぎ付けになった。ただ一人、じっと門を見上げているうちに、父親の仕事を継ぐことへの不安は消えていった。高校を卒業し、父親の下で働き始めた。「父親の建てたものを見た時は感動しました。体一つであれほどの仕事をする父親を尊敬した。それが職人だけのロマンだと思った」という。ここから生方さんの猛勉強が始まった。父親の仕事を覚えるのはもちろんのこと、暇があれば近所の寺を巡り、住職に頼んでは屋根裏に潜り込み、木の組み方を頭にたたき込んだ。そんな一途さが19歳の青年を棟梁(とうりょう)にさせた。異例の出世だった。結婚を機に、二代目として家業を渡されることになる。当時は新築の寺社は少なく、修理の仕事が中心となった。なかなか思うように腕を発揮する場がない中で、関西に修業へ行こうとも思ったが、やはり地元で仕事をすることを最優先に考えた。宮大工という肩書きではあったが、一般住宅のちょっとした修繕のようなものでも、積極的に請け負った。生方さんは「みなさんに重宝されたおかげで、何とかなったんです」と、振り返る。
独自の工法を取り入れる
その後、職業訓練校で指導員として活躍。その功績が認められ、35歳という若さで、「群馬県優秀技能士表彰」を受賞した。確実に実力をつけていく生方さんだが、宮大工の仕事はなかった。翌年、境町にある妙見寺から仕事を依頼された。「念願がかなった」。この時やっと自分で宮大工の棟梁として旗揚げができたのだ。そしてこれまでに20棟以上の寺社を手がけた。大光寺(埼玉県上里町)の大鐘楼の新築では、確固たる技能がないと難しい技術であるといわれる「扇垂木割」の技法を取り入れた。また天増寺(伊勢崎市)の山門修復工事では、五重塔にも応用でき、宮大工の中では、より高度な技術を持った者しか施工できない「三手先尾垂木」の技法に取り組んだ。寺社を建てる時、まず調和のとれた屋根の弧を思い描くという。生方さんは「屋根は鳳凰が飛び立つような姿が魅力ですから、見る人に重さを感じさせていけません」と話す。現場で時間をかけて観察し、軒を支える木材を1センチ単位で削るよう指示を出す。しかし生方さんは、そんな伝統的な工法の中にも、独自のやり方を追求していった。伝統が重んじられる宮大工の世界では、異端的な発想に思えた。それは軒を支える木材と梁(はり)を、金属製のボルトでつなぐ工法の開発だ。くさびで固定する従来の工法よりも柔軟性があり、屋根が長年の荷重でゆがんでも、簡単に屋根の傾斜の調整ができる。「曲線の美しさを保つ方法を考えていたのです」という。それは単に現代的な合理性を追求したのではなく、建物の将来へ対する愛着から生まれた発想だった。
人々の心が宮大工を支える
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| 「扇垂木割」の技法が生かされた大光寺鐘楼(埼玉県上里町) |
宮大工として数々の功績を残している生方さんだが、それにおごることなく、「トイレの修理など、小さな仕事でも、すぐに飛んでいきますよ」と話す。自分を生かしてくれた人たちへの感謝の気持ちは、いつも忘れることがない。「いろいろな人のおかげで、この仕事が、いつのまにか自然にできるようになった気がします」という。生方さんは、宮大工の心のうちを、「宮大工の仕事は、工事をする寺社の寄付から成り立っています。生活に苦労しながらも寄付をした人の気持ち。それをいつも肌に感じているのです」と話す。これらの心の有り様が、長年にわたり生方さんを努力以上の領域へ越えさせたものだ。そうした精神は、現在、2人の息子さんに受け継がれている。かつての生方さんのように、息子さんは父親の下で修行中だ。「仕事ができるようになっても高ぶらず、謙虚な気持ちを忘れないでほしい」と、息子さんたちを前に話す生方さん。「ありきたりだね」と、息子さんに返され、少し照れ笑いを浮かべる生方さんの顔に、職人のあるべき姿を感じた。