協働の現場から


小見純一
(おみじゅんいち)

1958年生まれ。前橋市在住。敷島公園「フリッツ・アートセンター」のオーナー。全国アートNPOフォーラム前橋実行委員会代表。「前橋芸術週間」代表。活動歴に、国民文化祭ぐんま企画委員、ぐんま文化の日準備会議議長など。

11月5日、6日、前橋で全国から注目される催しが開催される。「第3回全国アートNPOフォーラムin前橋」がそれだ。
ユニークな活動を展開するNPO団体が集まるフォーラムの受け入れ側実行委員会の代表、小見純一さんに、都市とアートに関する考え方を聞いてみた。


全国アートNPOフォーラムのこと

 全国アートNPOフォーラムは、神戸で第1回、札幌で第2回が開かれた全国規模のフォーラム。この組織の理事をしているので、昨年の札幌で「次は前橋で」って手をあげた。

 それまでの2回は、どちらかというと大都市の抱える問題が話し合われたんだけど、今回のように20万、30万規模の都市で開催する意味は大きいと思う。都市計画と文化施策を両輪と考えてやっていこうという取り組みは、このくらいの規模の都市で一番効果があると思うから。
 全国にはこのくらいの規模の団体がたくさんあって、同じような悩みを抱えている。一つの処方箋(せん)で全部を直すことはできないけれども、解決策の一つを提示できたらいいなと思っている。

小見純一さん

小さな流れはできた。だから横串を通したい

 それと、この催しを通じて、アートNPOへの社会認知を進めたいという気持ちもある。
 官と民、企業、民間をつなぐ中間的な存在として、アートNPO的な役割が、今、必要とされているんだと思う。
 これまで前橋芸術週間の活動を20年近く続けて来て、小さな流れは生まれたんじゃないかなと思う。一郷一学とか、国民文化祭とかね。
 「文化が大事なんだ」という使命感を持った人たちがたくさん出てきて、それはとてもいいことなんだけれど、そういう活動に横串を入れる必要が、今あるんだと思う。
 横串というのは、例えば「公共性」という言葉について共通の考え方を持つ、というようなこと。個々の団体や個人の活動を規制しない意識や共感のネットワークを持ちたい。それが今必要なんだとひしひしと感じている。今回のフォーラムはそういう意識や共感づくりのために意味があると思っている。

【都市と芸術・文化】

 「芸術」が日々の暮らしに息づいていたら幸せだと思う。
 「芸術」は「表現」という言葉で置きかえてもいい。「日々の暮らし」は「まち」と置きかえることもできる。表現がまちの中に息づいていることが、ぼくにとっては大切なことだ。
 日々の暮らしの中で、ぼくたちが未来に対するビジョンを作っていくためには、まちにクリエイティビティー(創造性)がなくてはならないと思う。逆に言えば「クリエイティビティーがないまちには未来は無い」ということ。
 ぼくはクリエイティビティーということに対しては全幅の信頼を置く価値があると思うし、ぼく自身、信頼している。それは揺るぎない。

 クリエイティビティーを感じられるまち、クリエイティブなまちに住むことは幸せだと思う。このぼくの感じ方を押しつけようとは思わないけれども、一つ言えるのは、クリエイティビティーがあった方が、確実にまちは「寛容」に近づくということ。クリエイティビティーというのは差違を認め合うことにつながっている。クリエイションというのは差違を生む活動そのものだから。

寛容なまちはクリエイティビティーがつくる

 かつて都市は十分に寛容だったと思う。それは石屋がいて、おどりの先生がいて、というように、いろいろな人がいたからこそ生まれた寛容だった。今、かつてのそういう多様性を取り戻したいと思う。いろいろなことが起きる、それは予測ができないかもしれないけれど、予測できないから面白い。予測できないことを排除しないふところの深さをもった「寛容なまち」を取り戻したい。
 前橋のまちは良く悪くもスキマができている。そのまちとしての不完全さはアーティストには面白く感じられると思う。アーティストと商店街はなじめないということはないし、そういう融合はもう実際には始まっている。個人的にはアーティストを300人くらい前橋のまちに住まわせたい。そうするとかなり「寛容」にはなるんじゃないかな(笑)。

小見純一さん

前橋と映画

 「文化」っていうのは、芸術にまつわる環境のようなものをイメージしている。環境というのは「日々の暮らし」とほぼ同義で、「まち」と言い替えてもいい。
 都市、文化、芸術の関係を「前橋と映画」を例に考えると、一つの見方として、前橋は映画(芸術)を中心にした環境としての「まち」があって、映画館の衰退とともにまち=文化が消えた、ということもできる。
 映画を見るのに喫茶店で待ち合わせをする、見終わってまたお茶を飲みながら映画について話す。そういう、どこでだれとどういうふうに見たというような、映画そのものにまつわりつくようなまちの記憶があって、映画もまちも成立していた。そうしたシステムは今、希薄になっている。
 ぼくたちは、家を出て車に乗り、郊外のシネコンの駐車場に乗り付けて映画を見、帰ってくる。立ち寄る場所もないし、その間、だれとも話さないということもある。ドア・ツー・ドアの便利さで気がつきもしないけれど、見る作品そのものもあてがわれていて、受動的に見せられている。

 前橋で見る映画と、長野で見る映画、東京で見る映画は本当に同じものでいいのかなぁという危機感は強い。「均一な感動」というべきか、そういう人の情動まで管理されている危機感を感じる。だれかの感動の追体験をしているに過ぎないのではないかと感じることも多い。

 映画に限らず絵でも彫刻でも音楽でもいいが、前橋で見聞きしたならば、前橋ならではの感動が本来あっていいはずだと思う。そういう感動をつくってきたのは前橋の場合は、映画館という「中心」だったと、ぼくは考えている。それが失われて、まちも均質化している。それは恐いことだと思う。

コミュニティへの憧憬/動機としての"まち"

ワークショップ「椅子を探すことから」の様子
商店街で椅子を借りている様子
フォーラム関連のワークショップ「椅子を探すことから」の様子。
ワークショップは「麻屋再生計画」の一環。商店街からフォーラムで使用するための椅子を借り歩く。
逐一趣旨を説明するすることによるPRの効果もねらっている。

 昨年結婚して最少のコミュニティを手に入れた。コミュニティの単位の一員になったことで見えてきたものもある。若い人たちも出てきたし、自分は世代間の橋渡しをしなくちゃという気持ちが強くなった。アートNPO間に横串をというのも、そうした気持ちから出ているのかもしれない。

 「懲(こ)りない、媚(こ)びない、拒まない」がぼくの信条。今回のフォーラムは行政とも企業ともいい距離感をもって準備ができている。いままでしてきたことを通して「もちはもち屋」のような機能分担ができている。この催しが官民協働のプロトタイプのようなものになったらいいな思う。

 毎回いろいろなことをするたびに「これがまち再生の最後のチャンスだ」と思うけれど、今回は特にその思いが強い。ぼく自身、まちをどうにかしなくてはという動機が薄れてきているのを感じている。ニヒリズムに陥ってしまいそうだ。だからこそ今は、形而上的なことを考えるのではなくて、実践的なことをしたい。行動に移したい。「やってもやらなくても同じこと」と思う人が増えるのが恐い。それは伝染する。

小見純一さん。前橋初の本格的百貨店「麻屋」の建物の内部で撮影。

 「今、まちは人の行動の動機となり得るのだろうか」と聞かれたら、ぼくは「今、かろうじて、それは動機になるんだ」と答えられると思う。毎日小さい白旗を上げることは楽だが、どうせ白旗を上げるなら、でっかいのをバッタバッタ振るように上げたい。今回のフォーラムが「でっかい白旗」になるのか、あるいは動機付けのきっかけ、モチベーションを高めるきっかけになるのかは分からないが、それは挑戦する価値はある。
 フォーラムでは、「この場所をどうするか」というような具体のものを手がかりにしていく。それは県庁前の広場を考えるワークショップでやったような手法だ。ものすごく具体だけれども、問題はきっと共有できると思う。

(聞き手 稻葉)

※第3回全国アートNPOフォーラムin前橋


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