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歴史

 古代から近現代(きんげんだい)まで、群馬県ではいろんなことがあったんだよ。

県名の由来

 古代、現在の群馬県の地域(ちいき)には上毛野国(かみつけのくに)という国がありました。その中には「車評(くるまのこおり)」(「評」は後に「郡」となる)と呼(よ)ばれていた地域があったとされています。
 奈良(なら)時代に、国・郡・郷(ごう)名はその土地にあった漢字二文字で表すこととされ、国名「上毛野国(かみつけのくに)」は「上野国(こうずけのくに)」に、郡名「車郡(くるまのこおり)」は「群馬郡(くるまのこおり)」に改められました。
 1871(明治4)年7月、明治政府(せいふ)は、江戸(えど)時代の藩(はん)を廃止(はいし)して新たに県を置くことを定めました(廃藩置県(はいはんちけん))。これを受け、1871(明治4)年10月28日に、高崎(たかさき)・前橋の大部分を含(ふく)み栄えていた「群馬郡」の名前をとって県名とし、第1次群馬県が成立しました。この日にちなんで、10月28日は群馬県民の日となっています。

群馬県に関する歴史上の主な出来事

旧(きゅう)石器時代の日本に人はいた!岩宿遺跡(いせき)(原始)

石器の画像

 岩宿遺跡は、みどり市笠懸(かさがけ)町にある、旧石器時代の遺跡です。1946(昭和21)年、納豆(なっとう)などの行商を行いながら考古学研究に励(はげ)んでいた相沢忠洋(あいざわただひろ)さんが、約3~2万年前の地層(ちそう)である「関東ローム層(そう)」の中から石器を見つけました。それまで、旧石器時代の日本に人は住んでいなかった、住めなかったと考えられていたので、これは日本の歴史を塗(ぬ)り替(か)える大発見でした。

鎌倉幕府(かまくらばくふ)を倒(たお)した新田義貞(にったよしさだ)(中世)

新田義貞の肖像画

 鎌倉時代末期、執権(しっけん)北条(ほうじょう)氏による身勝手な政治(せいじ)が行われるようになると、武士(ぶし)たちの間では幕府に対する不満が高まりました。そこで、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は幕府から政権を取り戻そうと、武士たちに倒幕(とうばく)を呼びかけます。これに賛同(さんどう)した武将(ぶしょう)・新田義貞は、1333(元弘(げんこう)3)年、太田市の生品神社(いくしなじんじゃ)で兵を挙げ、鎌倉に攻(せ)め入りました。義貞の軍は、鎌倉での戦いで幕府軍に大勝し、わずか2週間あまりで、141年続いた鎌倉幕府を滅(ほろ)ぼしました。

浅間山の大噴火(だいふんか)(近世)

鬼押出し園の写真

 1783(天明(てんめい)3)年、浅間山は大きな噴火をおこしました。これを「天明の浅間焼け」といいます。
 この噴火はすさまじいもので、1100人あまりの人命が奪(うば)われ、多くの家屋が失われてしまいました。
 嬬恋(つまごい)村の観光名所「鬼押出し園(おにおしだしえん)」の溶岩(ようがん)は、このときの溶岩流が冷えて固まったものです。

群馬県の基礎(きそ)を築(きず)いた名県令・楫取素彦(かとりもとひこ)(近代)

楫取素彦の写真

 東毛地区の一部が含(ふく)まれていなかった第1次群馬県(1871年)、埼玉(さいたま)県の一部と一緒になっていた熊谷(くまがや)県(1873年)を経て、1876年に、現在(げんざい)の群馬県と同じ形の第2次群馬県が成立しました。この時、初代県令(現在の県知事)に就任(しゅうにん)したのが、長州藩(ちょうしゅうはん)(現在の山口県)出身の楫取素彦です。
 楫取は10年に渡(わた)って県令を務(つと)めましたが、その間、文化財(ぶんかざい)の保護(ほご)や蚕糸(さんし)業の発展(はってん)、教育の振興(しんこう)に力を入れ、創設(そうせつ)期の群馬の発展に多大な功績(こうせき)を残しました。

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