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群馬県中部管内の地域資源「赤城三姫物語」

淵名姫の画像
赤城姫の画像
伊香保姫の画像

1 概要

 赤城三姫物語は、富士見商工会が地域振興のために平成29年に創作した物語です。
 南北朝の頃に刊行された『神道集』の一部、赤城と伊香保に関係する部分をアレンジし、魅力的な登場人物の中から、淵名姫、赤城姫、伊香保姫などのエピソードをまとめています。

 『神道集』は、仏教布教の手法、唱導のテキストとして南北朝の頃、1300年代半ばに成立した読み物と考えられています。発行は京都の安居院とされていますが、群馬県に関係したことが多く取り上げられていることから、群馬県内で編纂されたとも考えられます。(柳田国男は太田市世良田町の長楽寺の作を疑っていたようです。(東洋文庫『神道集』解説))

 登場人物は実在せず、物語もフィクションですが、歴史上の人物や実在の地名を基にしたと考えられる部分もあり、それが物語を身近に感じさせると同時に、不可思議な魅力になっています。
 また、現代によみがえった三姫には、いわゆる「萌えキャラ」的な魅力的な図像が与えられ、物語世界のイメージがさらに膨らんでいます。

 群馬県では、この三姫が、淵(渕)名(伊勢崎市)、赤城(前橋市)、伊香保(渋川市)と関係していることから、前橋、渋川、伊勢崎の3つの行政県税事務所で地域振興を目的に物語の普及に取り組んでいます。

 ここでは、フィクションにさらにいろいろな想像を加えて、三姫物語、特に伊勢崎に関連した三姫の長女、淵名姫の不思議な魅力を掘り下げます。

2 登場文物や物語の舞台

淵名荘

 現在の伊勢崎市境地区に、上渕名、下渕名の地名が残っていますが、元々の淵名荘は「佐位郡」とほぼ同義で、東が新田荘と接し、西は桃ノ木川-広瀬川筋(旧利根川筋)、北が現伊勢崎市赤堀、南が現利根川までの広大な荘園でした。
 峰岸純夫氏ほかの『赤城南麓の開発と遺構』では、荘の成立は、1130(大治5)年に建立された仁和寺法金剛院の所領として、立荘・寄進されたものだろうとされています。
 ※右図(伊勢崎市ホームページからの引用)参照。中央部分が淵名荘。

淵名荘の画像

高野辺左大将家成

 三姫(淵名姫、赤城姫、伊香保姫)の父親で、無実の罪で都を追われ上野国深栖(深津)に流されながら後に都に戻ることが許され、さらには上野国の国司を務めることになる人です。物語では、上野国を離れて都にいた間に、自身の後妻が三姫を謀殺してしまったことを知り、利根川の倍屋ケ淵(ますやがふち)に身を投げてしまう、という生涯が描かれます。

 高野辺左大将家成の名前は、寡聞にしてか神道集と伊勢崎に残る『口口相承竜宮本記』以外には見られず、左大将や右大将、国司の任官の記録にもその名が現れないことから、架空の人物とみられます。
 うがった見方をするなら、神道集が成立した頃、淵名荘を治めていた赤堀氏が藤原秀郷の子孫と称していたことから、秀郷の祖先とされていた藤原魚名がモデル、ということも考えられます。
 魚名は氷上川継事件で大臣を罷免され、遠流、召還、没後再度の大臣任官など、ドラマチックな生涯を送った人。その別称が「川辺大臣」だったこと、近衛大将を務めたこともあることなどを考え合わせると、「高野辺大将」との語感の類似が気になります。
 魚名の子孫には、鳥羽院政で権勢を振るった藤原「家成」もいて、その家成が、淵名荘成立(1130年)と同時代人ということも気になるところです。
 また、深津に土着した氏族は南淵氏なので、家成のモデルには、赤堀氏の祖、南淵秋郷がイメージされていた可能性もあります。

淵名姫

 三姫の長女。物語では、豪族・淵名次郎家兼の養女として淵名荘で育てられたとされています。父家成が上野国を離れた間、16歳のときに、継母とその弟の更科次郎兼光によって大きなかご(簍。あじか)に入れられ、利根川の倍屋ケ淵に沈められてしまうという、悲劇のヒロインです。

淵名姫の画像

 神道集では、赤城山頂の赤城神社元宮の祭神・赤城大明神は、この淵名姫と、やはり非業の死を遂げる三姫の二女・赤城姫であると語られています。
 この淵名姫の物語に関しては、栗原久氏が論文で大変興味深い説を書かれているので引用してご紹介します。

 上流で畑作が中心だった大将家成側と下流で稲作を行っていた淵名氏側とは、水を奪い合うことなくうまくいっていたが、信濃国から後妻を迎えたことで稲作がさかんとなり、上流で水を使うようになったため、両者の関係がうまくいかなくなり、断絶状態になったと考えられる。これが淵名姫の殺害として伝わっているのであろう。
(栗原久「赤城山をめぐる伝説とそのルーツの考察」)

 なお、家成が流された深津は現在前橋市に含まれますが、旧の粕川村です。粕川村は文字通り、赤城小沼を水源とする粕川が南北に貫流していました。
 この赤城小沼水源の灌漑は、神道集成立の頃かその直後、14世紀、15世紀から行われたと推定されています。(『赤城南麓の開発と遺構』)

淵名次郎家兼

 養父として淵名姫を育てた豪族だが、高野辺左大将家成の後妻(更科太夫の娘)とその弟・更科次郎によって、赤城山の藤井谷(「黒檜嶽大滝」の上)で斬り殺されてしまう、という人物です。

 家兼のモデルは「淵名太夫」の異名で呼ばれた藤原兼行と考えられます。『上野国志』の佐位郡の項には「藤原秀郷五代孫鎮守将軍頼行の弟行則の長子足利太郎兼行始めて淵名に居て淵名太夫と称す、このとき当郡を領す」と記されています。
 藤原兼行は、女堀の開削にも関わったとする見方もありますが、その真偽は分かりません。ともかく、赤城の南面に大きな力を持っていたことは確かなようです。

 また、家兼のモデルが藤原兼行とすると、さらに面白い赤城山との関連がでてきます。
 上述のとおり藤原兼行はその祖を藤原秀郷としています。別名・俵藤太とも呼ばれる藤原秀郷は、栃木県佐野市のゆかりで、平将門追討で名をはせた人です。
 その秀郷の有名なエピソードとしてムカデ退治があります。秀郷が大蛇に頼まれて近江三上山(太平記では比良山)のムカデを退治したというお話です。
 この「大蛇 vs ムカデ」の戦いは、群馬県人にとって聞き覚えのある物語です。場所こそ違え群馬県には、昔、日光(の神様)と、赤城(の神様)が、それぞれ大蛇とムカデに姿を変えて争った、という伝説があるからです。(群馬県沼田市の老神温泉では逆に、日光がムカデ、赤城が大蛇とされています。)

倍屋ケ淵(ますやがふち)

 利根川にあって、神道集に「名高い」と書かれるくらい、当時(1350年頃)の人々には知られた淵だったようです。
 淵名姫や高野辺左大将家成の非業の死の舞台であり、神道集では、後に家成の息子の上野国司によって淵名明神の社が建てられたとされています。

 現在、伊勢崎市境上渕名(旧采女村)には、淵名神社という社があり、東洋文庫版『神道集』では、注でこの淵名神社の所在が書かれています。編訳者の貴志正造氏は、現在の淵名神社が神道集記載の淵名大明神である可能性を考えていたようです。
 けれども、現在の淵名神社が、ある時期にいくつかの社をまとめてつくられたものであること、それ以前はこの場所は熊野神社の場所であったことなどを考えると、現在の淵名神社の近くに倍屋ケ淵があったと考えるのは早計かもしれません。

 福田浩氏が『古代語地名の研究』の淵名姫の伝承引用部分で「摩住多の渕」と表記しているほか、『粕川村誌』にも、「女淵城と摩住多ケ淵」という記述があるなど、現在知られている資料には、「倍屋(ますや)」と「摩住多(ますだ)」の表記が混在していることにも留意が必要です。

 横山重、太田武夫両氏編の『室町時代物語集(1)』の「上野国赤城山御本地解説」では、現在の淵名神社の場所を「利根川は淵名より二里程あるから、遠すぎるようであるが、如何であろう」と評しています。
 また、「倍屋が淵」の解説として「今は所在不明らしい。(中略)御本地には増田とある。増田は二の宮の西南にあり、広瀬川が近い。下増田には広瀬川に懸けられた増田大橋という長さ六十余丈(≒180m)の橋があったという」とも。

 この記述は、「倍屋ケ淵の所在を増田(現前橋市下増田町)に同定できるのではないか」、「二の宮赤城神社が神道集の赤城神社ではないか」、との示唆でしょう。

 この指摘は非常に慧眼に思われます。そもそも利根川はこれまで変流を繰り返しており、現広瀬川河道が現利根川河道に変わったのは1539(天文8年)ないしは1543(天文12)年です(栗原良輔氏『利根川治水史』)。つまり、神道集成立の頃に有名だった淵の場所は、変流以前の流路(=現広瀬川の河道)でなければならないからです。

 倍屋ケ淵の場所はいまだに同定されていません。けれども、伊勢崎市宮古(現宮子)の「竜宮伝説」とあわせ、北関東自動車道駒形IC付近、桃ノ木川、荒砥川と合流する付近で、広瀬川が大きく左右に振れて流れている地図を眺めると、くだんの淵が現在の「増田」にあったのではないかという説も、相当の説得力を持っているように思われます。

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