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松井田、甘楽周辺及びその他

碓氷製糸株式会社(旧碓氷製糸農業協同組合)

碓氷製糸株式会社の写真

 群馬県内にはかつて100社を越える製糸所があり、隆盛を誇った。しかし、その後製糸業は著しく衰退し、営業製糸として県内では唯一碓氷製糸農業協同組合のみが行っている。この碓氷製糸農業協同組合は昭和34年に設立され、組合員数1100名で構成される製糸農業協同組合であった。生産品目は、普通品種のほか、群馬県内産シルクである世紀21、ぐんま200、新小石丸等の生産を行うとともに、玉糸、緒糸、ネットロウシルクなどの生産販売を行っている。

 2017年5月、碓氷製糸農業協同組合は、碓氷製糸株式会社となった。

所在地 安中市松井田町新堀甲909番地

旧組合製糸甘楽社小幡組繭倉庫(甘楽町歴史民族資料館)

旧組合製糸甘楽社小幡組繭倉庫の写真

 この建物は、この地方の養蚕の最も盛んであった時代の大正15年(1926年)に組合製糸甘楽社小幡組の繭倉庫として建てられた。その後、農協の所有となり、穀物や肥料の倉庫として使用されていたものを昭和59年に甘楽町が買い取り、翌年文化庁の指導のもとに歴史民俗資料館に改装された。館内には官営富岡製糸場建設に当たり、町内福島で焼いたレンガ等が展示されている。なお、この建物は養蚕最盛期を象徴する建物として昭和61年に甘楽町の重要文化財に指定された。入館料一般200円。

所在地 甘楽町大字小幡852-1

妙義・富岡方面の繭倉庫 旧甘楽社高田組乾繭倉庫跡

旧甘楽社高田組乾繭倉庫跡の写真
高田組の屋号(写真左下)

 妙義町下高田に現存する旧甘楽社高田組乾繭倉庫跡。土蔵。高田組が解散した後、一時農協の倉庫として使用されていた。現在は丸岡家が所有している。丸岡家の母屋に当たる部分が高田組事務所があった場所であり、隣家のあたりに製糸所があったそうである。高田組については、丸岡家にもほとんど資料はないそうである。倉庫は壁をトタンで覆っている。屋根は2年前に新しく葺き替えたそうである。倉庫の入口は鉄扉となっており、中に引き戸が2つあり、全部で3重扉になっている。倉庫内は合掌造りで、かなりしっかりした構造であった。なお、屋根の下には高田組の屋号が記されており(写真左下)当時を忍ばせる唯一のものである。

所在地 妙義町下高田771-1

旧官営新町屑糸紡績所 (絹糸紡績発祥の地碑)

旧官営新町屑糸紡績所の写真

 経済力の弱い当時の日本が、外貨を獲得できた最大の輸出品が生糸であった。明治政府は、いろいろなかたちで製糸業を発展させようとし、富岡製糸所に次いで、官営模範工場の洋式絹糸紡績所を明治10年10月20日設立した。
 19日午前6時頃から東京を発車したものは、内務卿大久保利通、大蔵卿大隈重信、工部卿伊藤博文、内務少輔前島密、勧農局長松方正義らの面々であった。「屑糸屑繭を財貨の屑と見て外国人に売却してきたが、外国人はそれを生糸に紡績して利益を得ていた。この工場が発展をすると共に、これを模範として各地に屑糸紡績工場が勃興することを期待する。」と、大久保利通は、期待の大きさを祝辞の中で述べた。

所在地 多野郡新町

群馬県立日本絹の里

群馬県立日本絹の里の画像の写真

 群馬県立日本絹の里は、繭や生糸に関する資料や群馬の絹製品などの展示、絹を使った染織体験などにより、多くの人々が集い、伝統ある群馬県の蚕糸絹業の足跡と天然繊維であるシルクのすばらしさを紹介します。(HPより)
 榛名山麓に建ち、まわりは、桑畑が広がっている。

所在地 群馬町大字金古

住谷家住宅

住谷家住宅の画像の写真

養蚕農家の特徴の一つに、屋根の棟の上に、換気のために建てられた高窓(ヤグラまたはウダツ)がある。この特徴を持つ住谷家は、養蚕とともに蚕種業も営んでいた。写真右の桑屋は、蚕種と桑を保管する建物で、明治末年に建てられた。間口6間、奥行4間、寄棟造、平屋建。桑屋の下部には、石垣で囲う「ムロ」があり、ここに多くの氷柱を立てて蚕種を保管したと伝えられる。現存する数少ない桑屋として貴重である。平成9年12月12日群馬県の有形文化財の建造物に登録された。

所在地 群馬町東国分

貞明皇后御歌碑

貞明皇后御歌碑の写真

 かつてこの場所には稚蚕共同飼育所があったが、現在は跡形もなく畑地となっている。この稚蚕共同飼育所の敷地内に昭和39年貞明皇后(昭和天皇の母君)の歌碑「つみとれる 桑の新葉にこもれつつ こがいはげみ 夏もありしが」が建立された。この御歌碑を建立する経緯について、関係者に話を聞くことができた。それによると、昭和37年~38年頃稚蚕共同飼育所が建てられる際、りっぱな飼育所にふさわしいものを何か建てたいと関係者が方々に働きかけた結果、この御歌碑が建立されたという。従って、この地域と貞明皇后の間に特に関係はない。この飼育所は敷地が2千平方メートル、会員数120名を擁する大規模なものであったが、昭和~平成に変わる頃には閉鎖され、すぐ取り壊されたという。現在、この付近には養蚕農家はないが、飼育所がなくなった今も、この御歌碑は地元の人に大切にされている。

所在地 榛名町本郷

ばばしげひさ 馬場重久の墓

馬場重久の墓の写真

 馬場重久は1663年(寛文3年)~1735年(享保20年)の儒医、養蚕家である。群馬郡北下村(現吉岡町)に生まれ、医を生業としながら養蚕と農業改良に力を尽くした。特に養蚕業の改良に力を注ぎ、1712年(正徳2年)に「養蚕育手鑑」を出版、養蚕技術に画期的な方向を与えた。この養蚕書は日本でもっとも古いものの一つであり、「清涼育」と呼ばれる飼育法について記述してある。以後、江戸時代ではこの飼育法が普及した。馬場重久の墓は、昭和52年県指定史跡となった。

所在地 吉岡町北下

岩崎竹松翁功徳碑

岩崎竹松翁功徳碑の写真

 岩崎竹松は文政9年(1826年)万場町(現神流町)大字小平に生まれ、早くから養蚕業に関心を持ち18歳のとき秩父郡長留村の島田清吉に製糸法を学び、浅香丈助から蚕児飼育法を学んだ。安政2年(1855年)に中里村(現神流町)大字魚尾の岩崎家の養子となった後、奥州各地を回り養蚕について研究を深めた。元治元年(1864年)に高山長五郎の来訪を受け、養蚕法について互いに研究を行った。後に、高山長五郎が高山社を藤岡に設立したが、これは岩崎竹松に負うところが大きかったといわれている。明治19年には養蚕改良寵育社を設立し、社長となる。明治24年には養蚕改良寵育社は高山社分教場となり専心生徒の育成に努めた。明治31年73歳で没。その後、岩崎竹松の功徳をたたえるため、子弟らにより功徳碑が建立された。碑文は群馬県知事古荘嘉門の撰並びに書である。この碑のある場所はとくに「碑の場」と呼ばれていたというが、現在地元の古老に聞いても「碑の場」の呼び名は知らないという。おそらく廃れたものと思われる。岩崎竹松については、蚕室の気温状態を肌で知るため蚕と一緒に裸で寝た、また気温が分からなくなるからと風呂に一切入らなかったなど数々の逸話が残っている。また、現在岩崎竹松の生家には、養蚕日誌60年分や高山長五郎と岩崎竹松が向き合って蚕の話をしている絵や分教場印などが保管されているという。なお、中里村には明治のはじめごろより製糸が盛んになり、工場製糸がこの地の産業となった。魚尾に個人経営の山二製糸所、福田製糸所ができ、明治27年には平原に下仁田社中里製糸場、明治34年に魚尾組製糸場の2つが開業した。

所在地 かんなまちよのお 神流町魚尾(旧中里村魚尾)

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