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前橋市

旧塩原蚕種

旧塩原蚕種の写真1
旧塩原蚕種の写真2

 この塩原蚕種では、昭和54年まで蚕種製造業を営んでいた。多いときで150人が従事するなど、大変規模が大きかった。廃業した後、長屋門と大谷石でできていた蚕種製造の産業場は取り壊され、母屋(写真左)と種を翌年まで保管する大谷石でできた保護室(写真右)などが現存している。この母屋は、塩原佐平氏が明治の中頃から15年を費して建造したもので、大変りっぱなものである。この塩原蚕種で製造された蚕品種「又昔」は特に「塩原又」と呼ばれ、全国から注文が来たという。昭和23年、貞明皇后が各地の蚕糸・絹業施設等を視察した際、この塩原蚕種も見学されたという。

所在地 前橋市田口町

前橋煉瓦倉庫  旧奈良製糸所糸保管倉庫

旧奈良製糸所糸保管倉庫の写真

 かつて、この地には敷地2000坪、250人を越える従業員を擁する奈良製糸所があった。昭和20年の前橋空襲により、製糸所はすべて焼失したが、唯一赤煉瓦の倉庫のみが焼けずに残った。この煉瓦倉庫(イギリス積み)は木造2階瓦葺で大正4~5年頃に建造され、主に生糸の保管に使用されたものである。15年程前に市の区画整理事業により、移転か解体かを迫られたとき、結果として移転を選択し、3ヶ月がかりで約3m程移動させたという。現所有者の奈良宗太郎氏によれば、倉庫の地下に約2m四方の穴が掘ってあり、この穴によって倉庫の中の湿度を一定に保つ働きがあったとの話を聞くことができた。80年以上たった現在でも、ほとんど傷みもなく美しい姿を見ることができる。このように、前橋空襲をくぐり抜け、製糸所があった当時の姿をとどめていることは、製糸のまちとしての前橋の歴史を語る上でも極めて重要である。なお、写真では見にくいが倉の前面の壁にある黒い筋は、かつてここに繭を保管するための土蔵があった痕である。また、鬼瓦には屋号である「かさまるじゅう」が見える。(写真左下)

所在地 前橋市日吉町2丁目5-7

前橋煉瓦倉庫 旧安田銀行担保倉庫

旧安田銀行担保倉庫の写真

 この建物は、大正2年に建築された。当初は安田銀行が所有し、繭を担保とした金融を行うための倉庫である。当初は2棟建っていたが、昭和20年の前橋空襲で1棟が消失した。建物の構造は、煉瓦造り2階建て瓦葺きで、建坪は180坪あり、建築当時のままの状態で建っている。設計は、フランス人技師と伝えられている。前橋の糸のまちとしての歴史を語る上で大変貴重な建物である。現在は、協同組合・前橋商品市場の倉庫として使用されている。平成16年6月国の文化審議会の答申を受け、登録有形文化財として登録される予定となった。

所在地 前橋市住吉町2丁目10-2

旧農商務省 原蚕種製造所 前橋支所本館 (前橋市蚕糸記念館)

旧農商務省 原蚕種製造所前橋支所本館の写真

 明治44年12月22日岩神町(現昭和町3丁目)に建築、当時、政府は、全国で養蚕の盛んな群馬県、福島県、京都府など六地方に原蚕種製造所の支所を設けたが、現在残っているのは、この一棟だけである。建物は、玄関のエンタシス状の柱、レンガ積みの基礎、上下開閉式の窓、出入口のドアの低い位置の取っ手、避雷針の設置、高い天井、大壁造、横箱目地板張、などの特長をもつ、明治末期の代表的な洋風木造建築物である。昭和56年に前橋市が「糸の町」前橋のシンボルとして後生に遺すため、この場所に移築、現在は前橋市蚕糸記念館となっている。館内には養蚕・製糸に関する用具・機器等を展示し、蚕糸業と共に歩んできた前橋市の近代史をしのぶ記念館となっている。昭和56年7月に群馬県の指定重要文化財に指定されている。なお、開館は4月~11月の土・日・祝日のみ午前9時~午後4時に行われている。(ただし、4月下旬~6月上旬は、火曜日を除き開館)入場は無料。

所在地 前橋市敷島町263

日本最初の機械製糸場跡碑

日本最初の機械製糸場跡碑の画像の写真

 前橋藩の藩士深沢雄象と速見堅曹は、外国の技術導入を計画しスイス領事シーベルの斡旋でスイス人ミューラーを招き、その指導を受け、12釜(12人取り)の機械を買い入れ、駒々沢村の武蔵屋伴七屋敷内に明治3年6月日本で初めて機械製糸場の前橋製糸場を開業した。この製糸場では、日本ではじめてケンネルより掛け方式で繰糸が行われた。製糸機は12人取りの洋式機械を備えた小規模なものであったが、日本最初の機械製糸場であり、官営富岡製糸場の設立の2年前であった。前橋製糸場には各地から伝習性を受け入れ、機械製糸技術の全国的普及の最初の拠点となった。星野長太郎は黒保根村の水沼製糸場建設前に女工たちをここで伝習させていたとの記録もある。廃藩置県後、この製糸所は小野組に払い下げられたが、明治7年小野組破産後に勝山宗三郎の手に渡り、大渡製糸所と改称した。この時は設備を増やし糸の評判も高く、明治21年には職工100人規模になったが、明治25年かぎりで姿を消した。なお、深沢雄象は、速水堅曹や松本源五郎とともに明治10年製糸会社一番組を立ち上げ、翌年、このころ設立された各組を併合して、精糸原社を北曲輪町につくり、その頭取となった。精糸原社では、糸の輸出を行ったが、糸の品質の高さから評価が高かったという。このように前橋では、水の豊富さと繭調達がしやすさから、製糸業が盛んであった。明治期には大きな製糸場がいくつも作られ、前橋の繁栄を築いた。特に明治末の交水社では数千人の工女を働かしていたという。なお、この日本最初の機械製糸場跡碑は、前橋市及び前橋商工会議所などによって昭和36年に建碑された。今も国道17号線沿いで見ることができる。

所在地 前橋市住吉町

前橋残影の碑

前橋残影の碑の写真

(写真上)前橋残影の碑は、上の日本最初の機械製糸場跡碑より100mほど南にある厩橋のたもとにある。座繰りをする女性像の隣に俳人相葉有流(明治40~平成5)の前橋残影の句「繭ぐるま曳けばこぼるる天の川」を刻んだ碑がある。また、碑の脇に繭玉をデザインした噴水がある。この地がかつて生糸で栄え、市の発展の礎になったことを後世に伝えるため昭和56年に前橋市及び蚕糸関係団体によって建てられた。

(写真下)碑近くにある燈柱には、昔前橋産地独特の形をした「堤糸」と「生糸の取り枠」がつり下げられている。

所在地 前橋市住吉町

下村善太郎翁銅像

下村善太郎翁銅像の写真

 前橋市初代市長となった下村善太郎が、生糸売り込みによって莫大な財を築いたことはよく知られている。下村善太郎は、文政10年4月前橋本町に生まれ、17歳で結婚し家業の小間物屋を継いだが、賭博と米相場に凝って失敗して八王子に夜逃げし、その地で熨斗糸(のし糸)買いをしたところ、努力の甲斐あって蓄財をし、営業も広げ、繭買いから生糸に手を広げた。安政6年の横浜開港のとき、生糸を売り込み、生糸の荷主として成功した。文久3年前橋に引き上げ、前橋の生糸荷主の筆頭として莫大な財を築く。このとき、前橋城再築に多額の寄付金を修め、慶応元年には生糸改取締となる。下村善太郎は前橋振興に力を尽し、前橋への県庁誘致運動や前橋火災の被災者の救援、大宮-高崎間の鉄道を前橋まで延長するための運動など、あらゆる都市基盤づくりに奔走した。明治25年前橋町が市になるに際し、回りから推され初代市長になったが、翌年病気になり退職、その後死亡した。この銅像は現在、前橋市役所の北、県庁通りに面して立っている。

所在地 前橋市大手町

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