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【11月15日】史跡等の指定等について(文化財保護課)

 国の文化審議会(会長 佐藤 信(さとう まこと))は、令和元年11月15日(金)に開催された同審議会文化財分科会の審議・議決を経て、特別史跡の新指定1件、史跡名勝天然記念物の新指定19件、追加指定等29件、登録記念物の新登録5件について、文部科学大臣に答申しました。
 この史跡名勝天然記念物の指定19件、追加指定等29件の中には、本県所在の下記の史跡新指定1件、追加指定2件が含まれています。
 この結果、近日中に行われる官報告示を経て、史跡名勝天然記念物は3,299件、登録記念物は117件となる予定です。なお、本県所在の史跡件数は52件となる予定です。

1 答申が行われた予定の本県所在の史跡名勝天然記念物

1.史跡の新指定

上野国多胡郡正倉跡(こうずけのくにたごぐんしょうそうあと)(群馬県高崎市)

2.史跡の追加指定

八幡山古墳(はちまんやまこふん) (群馬県前橋市)

3.史跡の追加指定

北谷遺跡(きたやついせき) (群馬県高崎市)

2 上記文化財の概要

【史跡】上野国多胡郡正倉跡(こうずけのくにたごぐんしょうそうあと)(高崎市)

1 指定名称

上野国多胡郡正倉跡(こうずけのくにたごぐんしょうそうあと)

2 所在地

高崎市吉井町池365番外

3 指定面積

28,637.86平方メートル

4 所有関係

市有地、民有地

5 指定履歴

無し

6 概要

 上野国多胡郡正倉跡は、高崎市吉井町池に所在し、鏑川(かぶらかわ)によって形成された右岸の河岸段丘面端部に位置する。遺跡の真北約350メートルには、わが国唯一の建郡碑である特別史跡「多胡碑」があり、碑文には和銅4(711)年に、片岡(かたおか)郡・緑野(みどの)郡・甘良(かんら)郡から三百戸を割いて、新たに多胡郡を建郡したことが記載されている。遺跡の現況は、水田や畑として利用されているが、東側は宅地化が進み住宅が密集している。
 多胡郡家(たごぐうけ)の所在場所については、多胡碑の位置や周辺の地名・地形などから、古くから考察されており、多胡碑周辺が推定地として有力視されてきた。その中で、平成23年度から28年度にかけて、高崎市教育委員会が多胡郡家の位置を推定するために、多胡碑周辺地域の発掘調査を実施してきた。6次にわたる調査の結果、多胡郡正倉跡が確認され、平成31年3月には調査報告書として『多胡郡正倉跡』(高崎市教育委員会)がまとめられている。
 上野国多胡郡正倉跡は、古代の多胡郡における田祖(でんそ)や出挙(すいこ)で徴収した稲などを収納する倉庫群跡である。正倉院の区画としては、南北幅約210メートル、北辺の東西幅55メートル以上で、幅2~3メートルの正方位の溝で囲まれており、遺構は北辺・西辺・南辺で確認されている。区画内からは、礎石建物(そせきたてもの)が2棟検出され、その他にも、礎石と思われる大型の石の分布や瓦の堆積などから、多くの建物があったことが推定される。
 このうち、北端で検出された礎石建物は、梁行(はりゆき)3間・桁行(たけゆき)7間の東西大型建物で、基壇付きの総瓦葺建物(そうかわらぶきたてもの)である。遺物としては、瓦、炭化米のほか、先述の総瓦葺建物付近から壁土と思われる被熱粘土塊(ねんどかい)が出土しており、これらの遺物は長元(ちょうげん)3(1030)年の『上野国交替実録帳(こうづけのくにこうたいじつろくちょう)』に記載のある土倉があったことを傍証する資料である。礎石建ちで瓦葺の正倉は、上野国内では多胡郡のみで確認されており、威信をかけて高い技術の下で整備されていた様子を窺うことができ、また大型であることから賑給(しんきゅう)用の稲穀を納めた「法倉(ほうそう)」に位置づけられる。出土瓦の分析から、この正倉の創建は8世紀中頃と考えられる。
 上野国多胡郡正倉跡は、特別史跡「多胡碑」と発掘調査成果とが対応する遺跡であり、且つ建郡に伴って新たに建てられた正倉跡であること等、古代官衙の実態や律令国家の税の徴収、地方支配の在り方を考える上で全国的にも重要な遺跡である。

7 写真(提供:高崎市教育委員会)

航空写真(南から俯瞰)の画像
航空写真(南から俯瞰)
北端で検出された正倉の礎石(SB03)(上が北)の画像
北端で検出された正倉の礎石(SB03)(上が北)
北端で検出された正倉の礎石(SB03)(南から)の画像
北端で検出された正倉の礎石(SB03)(南から)
想像図1 正倉跡(右手前2棟は法倉)を北東から俯瞰した想像図の画像
想像図1 正倉跡(右手前2棟は法倉)を北東から俯瞰した想像図
想像図2 正倉跡(法倉)を北から見上げる画像
想像図2 正倉跡(法倉)を北から見上げる

【史跡】八幡山古墳(はちまんやまこふん)(前橋市)

1 指定名称

八幡山古墳(はちまんやまこふん)

2 指定履歴

昭和24年7月13日 文部省告示第159号
昭和55年3月22日 文部省告示第42号
平成15年8月27日 文部科学省告示第141号

3 所在地

追加指定の代表地番
群馬県前橋市朝倉町四丁目9番10外

既指定地の代表地番
群馬県前橋市朝倉町9番3外

4 指定面積 

既指定面積 22,076.84平方メートル
追加指定面積 587.00平方メートル
合計 22,663.84平方メートル

5 所有関係

追加指定地:市有地、民有地
既指定地 :市有地

6 概要

【古墳時代前期に築造された東日本最大の規模を持つ前方後方墳】
 八幡山古墳は前橋市街地南部の広瀬川右岸の台地縁辺に形成された広瀬・朝倉古墳群の端緒をなす前方後方墳で、4世紀前半に築造された。
 墳丘長は130メートルで東日本最大の規模を誇る。墳丘は2段築成で葺石が葺かれている。埋葬施設については、発掘調査は行われていないが、後方部墳頂地表下1.5メートルで玉石敷や粘土があったと伝えられていることから、竪穴系の埋葬施設であったと考えられる。周堀は不整な長方形で古墳の兆域(ちょういき)は南北190メートル以上、東西130メートル以上であることが推定されている。
 八幡山古墳は、高崎市に所在する墳丘長96メートルの前方後方墳、元島名将軍塚古墳(もとしまなしょうぐんづかこふん)(高崎市指定史跡)とともに、上毛野地域でも最古段階に位置づけられる古墳である。これらの古墳は、古墳時代の開始時期に大規模な農業開発を背景に地域の開発を牽引した盟主の古墳であると考えられる。今回追加指定する部分は、周堀の南西側である。

7 写真(提供:前橋市教育委員会)

西側上空より史跡を望む(昭和60年頃)の画像
西側上空より史跡を望む(昭和60年頃)
史跡八幡山古墳航空写真の画像
史跡八幡山古墳航空写真
既指定地 前方部南西側よりの画像
既指定地 前方部南西側より
今回指定する箇所(南西側より)の画像
今回指定する箇所(南西側より)

【史跡】北谷遺跡(きたやついせき)(高崎市)

1 指定名称

北谷遺跡(きたやついせき)

2 指定履歴

平成17年7月14日 文部科学省告示第101号

3 所在地

追加指定の代表地番
群馬県高崎市引間町644番7外

既指定地の代表地番
群馬県高崎市引間町663番1外

4 指定面積

既指定面積 35,932.96平方メートル
追加指定面積 1,781.17平方メートル
合計 37,714.13平方メートル

5 所有関係

追加指定地:民有地
既指定地 :市有地、民有地

6 概要

【5世紀後半の大規模な豪族居館】
 高崎市冷水町・引間町に所在する北谷遺跡は、榛名山東南麓に広がる台地上に立地する5世紀後半の豪族居館である。
 館は一辺90メートルの方形で周囲は自然地形を利用しつつ開削した濠に囲まれ、斜面には石積みが施されている。また、館本体の南側を除く3辺には、張出施設が2か所ずつあることが確認されている。張出施設のうち北西隅については濠の水量を調整する役割を持っていたと考えられる大型張出と一体となっている。
 濠は北側の弁天川(べんてんがわ)の流路の拡張と東濠・西濠の開削で形成されており、東濠と西濠の幅は32~34メートル、深さは3.2メートル以上である。また、濠の基底部から5センチメートルほど上部には6世紀初頭に噴火した榛名山の火山灰(Hr-FA)が堆積していることから、6世紀初頭には居館は衰退に向かったと考えられている。
 北谷遺跡は現況でも居館の形が分かるほど、残存状況が極めて良好な古墳時代の大規模な豪族居館である。また、南西約3キロメートルには三ツ寺1(※正式はローマ数字)遺跡が同規模・同形態で位置していることから、居館の規格性や両者の領域を検討する上で重要な遺跡である。
 今回追加指定する部分は、居館の東濠の一部と居館本体の北西隅にあたる部分である。

7 写真(提供:高崎市教育委員会)

北谷遺跡 全景(東から)の画像
北谷遺跡 全景(東から)
館西辺・北張出付近調査状況(西から)の画像
館西辺・北張出付近調査状況(西から)
館西辺北張出(南西から)の画像
館西辺北張出(南西から)

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地域創生部文化財保護課
〒371-8570 前橋市大手町1-1-1
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