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文化財保護審議会 平成22年度第2回開催結果
1 開催日時
平成23年2月15日(火曜日)午後1時30分~午後3時45分
2 場所
群馬県庁 第1特別会議室(29階)
3 出席者
審議会委員16名
4 議案
報告事項
- 分野別国県文化財件数について
- 文化財保存事業について
- 県指定文化財の現状変更等について
- 史跡上野国分寺跡整備について
- その他
審議事項
- 小野直文書(おのちょくもんじょ)
- 木造阿弥陀如来立像(もくぞうあみだにょらいりゅうぞう)
5 議事概要
報告事項
報告事項1
現在県指定の文化財数は416件、選定保存技術1件で前回の審議会から変更はない。国登録有形文化財は富岡市講堂(旧富岡尋常高等小学校講堂)が登録されて111か所301件となった。
報告事項2
平成22年度の県指定文化財の保存事業は、修理保存6、保護養生3、環境保全1、整備活用1の計11件。
報告事項3
平成22年7月~12月の県指定文化財の現状変更およびき損は、重要文化財6、史跡3、天然記念物5の計14件。
報告事項4
史跡上野国分寺跡進入路整備は、昨年10月に進入路と駐車場の整備が終わり、11月上旬には完成式典を行った。
審議事項
審議事項1
(事務局説明)
小野直文書(おのちょくもんじょ)は、安中市所有で、平成3年に市指定重要文化財に指定した、文書2884点・絵図等80点からなる江戸時代後期~明治時代中期の資料で、安中藩士小野富三郎(廃藩後小野直と改名)が遺したものである。小野直は、藩政時代には安中藩役人、明治維新後は副戸長、郡役所書記などを勤め、資料は江戸時代末期から明治時代中期にかけて、安中藩政の諸記録および廃藩後の士族の生活、また安中地方の記録等多岐にわたるが、なかでも小野直が歴任した安中藩の御用部屋書役(かきやく)、御作事添奉行(おんさくじそえぶぎょう)、安中政庁の営繕司(えいぜんし)、下総代官見習等に関する貴重な記録や武家屋敷・江戸屋敷の間取図、明治時代前期の地域行政、教育関係文書、同志社大学を設立した新島襄に関する記録なども含まれている。
主な内容は次のとおりである。(1)板倉家の藩政記録文書、(2)下総領関係文書、(3)碓氷関所関係文書、(4)新屋敷建築関係文書、(5)大坂加番(おおさかばん)関係文書、(6)安中城取壊し関係文書、(7)明治初期の士族生活に関する文書、(8)初期安中中学校などの教育関係文書、(9)小野直日誌などの文書や(イ)明治1~2年の安中城絵図、(ロ)安中藩江戸上・中屋敷間取図、(ハ)武家屋敷間取図、(ニ)碓氷関所・堂峯(どうみね)番所間取図、(ホ)安中城内射撃剣場・聴訴訟所などの間取図等の絵図である。
小野直の略歴は次のとおり。
- 天保4年(1833)安中藩士小林友七の4男として生まれる。
- 嘉永4年(1851)小野家の養子になる。
- 安政2年(1855)御用部屋書役を命じられる。
- 安政4年(1857)下総代官見習を命じられる。
- 慶応4年(1868)御作事添奉行を命じられる。
- 明治2年(1869)御作事奉行・御林掛り、米9石外三人扶持。
- 明治3年(1870)安中政庁の営繕司を命じられる。
- 明治5年(1872)群馬県第11大区の副戸長となる。
- 明治11年(1878)碓氷郡役所書記となる。
- 明治19年(1886)碓氷郡役所書記を依願免職。
- 明治20年(1887)満54歳にて逝去。墓は安中市龍昌寺にある。
指定理由は次のとおりである。
- 本資料は、江戸時代末期から明治時代中期にかけて、碓氷安中地域の行政や社会の様子を具体的に示すまとまった資料群として位置づけることができ、当時の安中藩及び廃藩後の士族の生活や安中地方の記録を記述したものとして非常に価値が高い。
- 本資料の中には、県指定史跡碓氷関所跡の関係文書や安中城取壊しに関する文書などが残されており、歴史的資料として、学術上非常に価値が高い。
(委員)
事務局説明のとおり、量も質も大変貴重なものと思われる。
(委員)
文書だけでなく絵図類も出色である。指定理由は絵図類を強調したほうがよい。
(事務局)
指定理由の2を、「本資料の中には、県指定史跡碓氷関所跡の関係文書、安中城取壊しに関する文書や各種の絵図類などが残されており、歴史的資料として、学術上非常に価値が高い。」とする。
(審議会長)
他に意見がなければ、小野直文書は、諮問どおり県指定とすることで答申する。
審議事項2
(事務局説明)
木造阿弥陀如来立像は高崎市善念寺にある、像高95.5センチメートルの木造(桧材)・漆箔・玉眼の鎌倉時代初期の仏像で、特徴は次のとおり。
- 善念寺は浄土宗寺院で、天文(てんぶん)9年(1540)の創建と伝え、開山は和田城主和田信輝(わだのぶてる)の弟とされる。平成9年に本像を解体修理した際に、像内から発見された明暦(めいれき)元年(1655)の修理文書には、善念寺七世にあたる三誉上人(さんよしょうにん)の名が花押を伴って記されているので、この年以前に本像が善念寺の本尊として祀られていたことがわかる。
- 螺髪(らほつ)は丸形。肉髻珠(にっけいしゅ)・白毫(びゃくこう)をあらわす。覆肩衣(ふくけんえ)の上に袈裟(けさ)を偏袒右肩(へんたんうけん)に着す。左手は垂下(すいか)して掌(てのひら)を前に向け、第1、2指を捻じ、右手は屈臂(くっぴ)して掌を前に向け、第1、2指を捻じる来迎印(らいごういん)を結ぶ。両足先を少し開いて蓮華座(れんげざ)の上に直立する。
- 頭部は耳後ろの線で前後二材は矧ぎで、体幹部も前後二材矧ぎとする。もともとは頭・体幹部を通して前後二材矧ぎであった可能性がある。これに両体側部を矧ぎ付け、両手首から先、両足先を矧いでいる。
指定理由は次のとおり。
- 本像は、頭部が当初の形状でない点が惜しまれるが、体部前面の彫技が洗練されており、肉付きも適度に引き締まっている。その細部形式から本像の制作年代は、鎌倉時代初期と推定され、造形的に優れた仏像である。
- 像内から発見された明暦元年の修理文書によれば、本像は江戸時代初期には善念寺の本尊であったと考えられ、伝来がよくわかる歴史的価値も有している。
(委員)
たいへんバランスのとれた像で、特に体躯がよくできている。頭部は後世に補われたと思われるが、事務局説明のとおり歴史的価値もあり指定に値すると思われる。
(委員)
阿弥陀像としては標準的なものか?
(委員)
比較的あっさりとした装飾から12世紀末から13世紀初めの作と思う。
(審議会長)
他に意見がなければ、木造阿弥陀如来立像は、諮問どおり県指定とすることで答申する。