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文化財保護審議会 令和元(平成31)年度 第2回開催結果

更新日:2022年1月14日 印刷ページ表示

1 日時

令和2年2月3日(月曜日)13時30分~15時40分

2 場所

県庁29階 第一特別会議室

3 出席者

戸所隆会長、村田敬一副会長、飯島康夫委員、金澤好一委員、野田香里委員、
右島和夫委員、宮崎俊弥委員

4 事務局出席者

笠原寛教育長、柴野敦雄文化財保護課長、福田一也次長、櫻井美枝文化財専門官
文化財活用係:齋藤英敏補佐(係長)、井野千春指導主事、橋本淳指導主事、
笹澤泰史指導主事、小林正主幹、小嶋圭指導主事、今城未知文化財保護主事
埋蔵文化財係:飯森康広係長

5 開会

13時30分

6 挨拶

群馬県教育委員会教育長 主催者挨拶(笠原寛教育長)
群馬県文化財保護審議会 会長挨拶(戸所隆会長)
群馬県文化財保護審議会 副会長挨拶(村田敬一副会長)

7 議事録署名人選出

議長が今回の議事録署名人に飯島・金澤委員を指名。

8 傍聴人の報告

事務局(福田次長)が、1名であることを報告。

9 傍聴制限確認

事務局(齋藤補佐)から、審議事項については非公開、その他については公開とする提案がなされ、委員に承認された。

10 内容

報告事項

  1. 令和元年度文化財保護課事業報告
    1. 群馬県文化財保護審議会専門委員の解職について
    2. 文化財活用係の事業について
    3. 埋蔵文化財係の事業について
  2. 群馬県指定文化財の保存事業について
  3. 群馬県指定文化財の現状変更等について
  4. 国県指定等文化財数について

質疑

(議長)今までのところで何かお気づきの点があるか。

(審議委員)群馬の寺社魅力発掘発信事業について、令和2年度と来年度は調査のみで、その他の事業は一切無いという理解でよいか。

(事務局)事業としては調査のみだが、今年度パンフレットとアプリを作成するので、その活用を考えている。DCもあるので、そういったものを活用しながらPRしていく予定である。

(審議委員)群馬県の広報も拝見したが、群馬の寺社は装飾がとても豊かなものが多く、調査をされる先生の話は、とても興味深いものだと思う。しかし、2回だけのシンポジウムで、調査の合間に分かった面白い話を披露するというのは、少しもったいない気がする。発信方法をどうするのかということについて、考えていただける余地はあるのか。来年度は止めて、再来年度以降にどうか。例えば、東京ではぐんまちゃん家で、群馬学というのを開催しているし、SNSでの発信、ちょっとしたインスタ等はどうか。先生方や調査員の負担を増やすというのは本意では無いが、調査員が感じられたことを知る機会が身近にあればよいと思う。

(事務局)調査については今年度全部終わらないので、来年度も行っていくシンポジウムに関しては予算の関係等もあり簡単ではない。SNSを活用することについては、考える余地がある。アプリを含めて、どういった形で発信していけばよいのか考えたい。

(審議委員)これは一つの良い例かと思うが、今後、ぐんまの寺社魅力発掘発信事業というのは、調査をされる方、その事業に関わる方はその仕事で目一杯になってしまう。かつ発信もということになると負担が多いと思うので、その発信部分に関しても、予算確保を今後考えていければと思う。自治体の方の空いた時間のみという状況なので、外部の方が発信しやすいようにできたらとよいと思う。

(審議委員)今の寺社総合調査についてだが、建造物の特色が中心になるのか。建物のあり方とか、建築方法とか、時代とか、神社や寺院は地域の心の拠り所という意味で、例えば民俗だとか仏具とかを含めた総合調査は無いのか。寺院や神社の行事などを含めた調査なのか、建造物のみなのか。大事な調査だと思うので、地域の歴史の中に、寺院や神社を位置づけられればよいと思っている。その辺はどうか。

(事務局)今回の群馬の寺社の魅力発掘発信事業の中には建造物とともに、寺社に残っている民俗芸能の調査も入っている。ただ、その芸能について、具体的に細かいところまでの調査ではない。この神社にはこういう芸能があるとか、年間のスケジュールでこういう祭りがあるというのは、調査対象になっている。

(議長)神社などを歴史・建築関係の他に、私が専門としている地理、歴史地理学で空間的に見ていく見方がある。近畿から関東に来て、非常に歴史中心的な感じがある。総合的に色々見ていくという見方というのは、関係の建物や気象条件、あるいはかつての土地割りとか広がりや、色々なものが関係してくる。そういったことを、今後関連させていくということが、保存活用とか総合的に見るというのと関係してくると思う。すぐというわけにはいかないと思うが、そういう視点は必要ではないかと感じている。
他によろしいか。無ければ報告事項についてはこれで終わりにする。

審議事項

  1. 群馬県指定史跡の指定について
    1. 奈良古墳群
  2. 専門部会の活動について

質疑

(議長)これより非公開となるので、報道機関の方、傍聴人の方は退出をお願いする。それでは審議事項に入る。最初に群馬県文化財保存活用大綱について事務局から説明をお願する。

(事務局)委員会でいただいた御意見を元に、今後大綱案を修正した上で教育委員会の協議会で説明し、議会へ報告をし、3月の教育委員会会議で最終的な議決となる予定である。修正案については委員長と相談し、議会前に再度、先生方に提示させていただく予定である。

(議長)これについて何か質問、意見はあるか。

(審議委員)最初の委員会で申し上げた気がするが、大綱の中に外国語での表示とか、インバウンド・海外という言葉が入っていないところがあるので、入れてほしいと思っている。

(議長)上手く入るかどうかも含めて検討してほしい。

(事務局)第3章の基本方針の中で、外国語表示やインバウンドについて取り入れていきたいと思う。再提示する際には、反映した形にしたい。

(議長)この大綱が出て、教育委員会で最終的に決議された以降は、報告書やパンフレットなりで広報すると思うが、シンポジウムのような形で何らかの広報事業は考えていないのか。

(事務局)毎年5月の県内市町村を集めた文化財保護行政説明会で、大綱について説明したいと思っている。

(議長)行政説明会は、一般の市民とかそういう人たちが対象ではなく、あくまで行政サイドの方か。

(事務局)ホームページ上で公開して、一般県民も見られるようにしたいと思う。

(議長)これは色々な問題があると思うが、今回のパブコメにしても意見がなかった。何らかのマスコミに載るような、一般にもわかるような形で、大々的に広報しないと、なかなか「笛吹けど」ということが起こりかねない。広報を色々考えてほしい。パブコメがゼロということから、そこは考えていかなければいけないのではないか。市民からの突き上げがないと、なかなか動かないところもある。次年度以降のことになると思うが、検討してほしい。

(審議委員)大綱に沿って動き出すのは、来年度以降になる。社会全体で文化財を保存・維持していこうという新しいスタンスの中で、向き合っていこうということが打ち出されているので、そのことを上手く伝えていく必要がある。広報部局と上手く連携したり、知事の発言をビジュアルに伝える場などで、ムードづくりというか、県民を巻き込むチャンスを、いつも狙いながら4月以降進めていくとよいと思う。

(議長)歴史博物館に来館する方たちは、文化財に関心のある方たちだと思う。色々な県の機関を通じて大綱を流布していかないと、なかなか成果が出てこない。そこはよろしくお願いしたい。
他に無ければ午前の大綱委員会で策定されたとおり、事務局に進めていただく。以上で、大綱についての審議を終了する。
続いて教育委員会から諮問のあった県指定文化財候補の審議に入りたいと思う。まずは事務局から説明をお願いする。

(事務局)(諮問読み上げ)
(依頼読み上げ)
(回答読み上げ)
奈良古墳群は、沼田市奈良町に所在し、薄根川右岸の南向き河岸段丘地形の上段に立地する13基の円墳からなる、北毛地区を代表する古墳群である。『上毛古墳綜覧』(昭和13年)には35基の古墳が記載されているが、昭和30年の開田事業に伴い、群馬大学尾崎研究室により調査され、古墳の痕跡と推測されるものも含めて59基の分布が確認された。当時の開田事業により、中核古墳以外の多くの小規模古墳が破壊されたが、昭和55年8月30日に沼田市史跡に指定された。また、出土品280点は昭和52年に市の重要文化財に指定されている。平成11年には古墳群東側主要部分の、約3万6千平米が公有地化された。
奈良古墳群は、最大規模の7号墳を代表とする直径15~17メートルの円墳が2基と、11~12メートルの円墳が5基、10メートル以下あるいは規模不明の円墳が6基の、計13基が残存している。古墳の構造は、石室入口部分を除いて周堀が巡ることが確認されている。古墳の主体部は開口していないものもあるが、全て横穴式石室である。石室の構造には、袖無型と両袖型があり、袖無型と7号墳が長狭である。特に、10号墳の石室は、玄室片側の側壁に側室を設けた平面形状が「ト」の字型の希少な構造で、県内では他に、高崎市の1例が知られるのみである。
石室の石材は川原石を使用したものが多く、割石もある。出土遺物には、直刀・鉄鏃などの武器類、鉄製壺鐙・金銅製杏葉などの馬具類、須恵器、刀子などがある。注目されるのは馬具類及び武器類が充実している点で、古墳群を形成した集団は馬の生産に関わっていた可能性が高く、軍事的な側面も見られる。古墳は全て榛名山軽石層の上に造られており、いずれの古墳も埴輪をもたないことから、年代は7世紀代と考えられる。
指定候補の種類と数量は、古墳群1件である。指定理由は、本県には約1万3千基を越える古墳が造られていたが、大半は、直径が10~15メートルの小型円墳であった。このような小型円墳がまとまっている古墳群を「群集墳」と呼んでいるが、戦後の開発により、その多くが消滅してしまった。県内では、前方後円墳のような大型古墳は数多く指定されてきたが、群集墳の県指定史跡はこれまでに例がない。奈良古墳群は、保存状態が良好な北毛地区を代表する群集墳で、7世紀に入って突如として形成され、馬具の副葬が顕著であることは、当地でこの時期に馬生産が一段と拡大していたことを物語っている。奈良古墳群は、古代群馬の馬生産の展開を示す重要な群集墳であり、県内の古墳時代終末期の歴史を知る上で欠かせない学術的価値の高い史跡と考えられる。

(審議委員)補足をさせてもらう。今の説明で基本的なところはよいと思う。群馬県の古墳は、全国的に見ても非常にたくさんあるということがよく知られている。保護課を中心に行われた古墳総合調査で、1万3千数百確認できたが、実際は、1万4千をはるかに超える数があると思う。そのうち直径が10メートル~15メートル位の小型古墳が90%近く、あるいはそれを超えるくらいの数を占める。県内で史跡に指定されたり、保存されたりしている古墳の多くは、数から言えば一握りである。現状は、前方後円墳、大型の円墳や方墳が史跡指定になっている。古墳群の90数%を占めていた小さい古墳に、目が向けられてこなかった。県をあげて戦後の食糧増産が行われたことから、前橋や高崎、平野部の地域各所に見られた群集墳のあった風景が、今は、ほとんど無くなってしまった。遅きに失したところもあるが、奈良古墳群が沼田市によって残され、且つ公有地化されたということは非常に重要なことである。県内に目を向けていくと、群集墳が残っている所がまだあるので、そういうところへ目を向けていく良いきっかけになると思う。古墳社会全体の中では、社会を支えていた部分もきちんと見ていかなければならないと考えている。おそらく小さい円墳というのは、古代の家族に1基くらいの割合で造られていると思うのだが、結婚式でいうと何々家という札が下がって部屋があったりするが、そういう何々家に1基くらいの割合で造られたので、たくさんの数になる。
もう一つ、奈良古墳群のある利根沼田の地域は、古墳の登場がすごく遅れた地域である。7世紀、古墳時代の最後に入った段階で一気に出てくる。奈良古墳群の古墳の中身が分かっているものを見ていくと、馬に乗るための道具を副葬品で入れる古墳がすごく目立つ。それから刀、刀子をもっている古墳が多い。どこの古墳でも7世紀の古墳がそうかというとそうではなくて、非常に特徴的である。利根沼田地域に一気に古墳が出てきたのは、おそらく馬の生産との関係が考えられる。
群馬はもともと馬の生産において非常に重要な地域として、5世紀から重要視されてくる。馬の需要が高まる中で、馬の生産が利根沼田地域に広がっていったことを、出土した副葬品が表しているので、歴史的にも7世紀の時代の動きを考えていく上で、この古墳群は非常に大事になってくる。小さい古墳も重要だと知ってもらう良い機会になる。

(議長)事務局と部会長から説明があったが、何か質問、意見はあるか。

(審議委員)90%以上を占める小さい古墳の代表として、県の指定にもっていくのは賛成である。質問と意見だが、一つは、お墓の主人公は誰だったのか。もう一つは馬具と同時に武器が非常にたくさん出てきた。奈良町は川場村の西側で調査を行ったことがあり良く分かっているが、あの辺は水田で、だから大きな古墳ではなく小さい古墳なのだと思う。そういう支配者は、水田を確保していってのし上がったのではなくて、狩猟とか漁労とか採集のような山の生活、そういう中で小さいながらも古墳を造るようになった。埋葬された人と絡めて、どういうふうにお考えかということと、古代群馬が蝦夷征討の基地だったと聞いたことがあるが、上野国の中ではなく、武器の対象は大きな勢力との戦いの中で用意されたものではないか。その辺の蝦夷との関係はどのように考えるのか。埋葬者はどういう人たちなのか。有力農民層のお墓にしては埋葬されているものからすると、おかしい感じがする。質問は以上2点です。

(審議委員)もともと利根沼田地域に住んでいる人はいたが、その時は古墳が造られる地域ではなかった。奈良古墳群と同様に、薄根川対岸の生品という所にも小さい古墳がたくさん造られた。無くなってしまったが、更に奥へ登っていくと秋塚という所にも小さい古墳群があった。それらの古墳群が、同じ時期に突然出てくること、馬に関わる遺物や武器を持っていること、馬の生産に関わるような新しい生業が急激に展開することがポイント、利根沼田地域の特徴である。
7世紀後半の東山道駅路という幹線道路、江戸時代でいうと中山道に近いルートが、関西から内陸を通って長野・群馬を経て東北へ向かっていく。埋蔵文化財調査事業団で発掘調査をして非常によく分かったのだが、7世紀後半に入った頃には幅12メートルの大規格道路が一気に造られ始める。近畿を中心にした新しい中央集権的な体制が出来ていく中で、幹線道路が整備されていく動きなのだが、その東山道のルートはそのまま東北までつながっていたということが、はっきり分かってきた。発掘調査で、道路跡が出てくる。その動きの中に、東北地方を直接支配下におこうという非常に強い思い、政治的思考があって、その時に群馬がヤマト朝廷の前線拠点になってくる。そういう動きの中で、馬の生産の問題もすごく重要視されてくる。馬の生産をしている人たちはモンゴルなど見ても分かるように、小さい時から馬に乗っていることから、馬に乗っての活動は非常に得意なわけで、そういう部分が軍事的な変遷の中で、上野国が非常に重要視されていくのが記録類で分かる。武器と馬に乗る道具の副葬品が出土することが、奈良古墳群・生品の古墳群(川場村)の特徴なので、騎馬に関わる馬の生産と、馬に乗ることが得意な人たちがたくさんいたと思われる。そのようなことから、騎馬という性格の軍事的な編成に関わってくる。

(議長)埋葬されている方の社会的ステータスは、その地域の小さな豪族なのか、武人なのか、馬生産をする生産者の力のある人、あるいは、かなり民衆的なところなのか、そのあたりも分かっているのか。

(審議委員)理屈の上だけのことだが、馬生産を基軸においた集団というところだと思う。その中にはもちろん、兵士として選ばれていくような部分もある。馬の生産ということ自体が、非常に専門度の高い専業的な部分を持っているので、馬生産の専門家が利根沼田地域に入ってきたことがわかる。利根沼田のある地域が編成し直される上で、リーダーは当然いるが、古墳の単位は古代の家族。その家父長が亡くなったときに古墳を造るきっかけになり、家族全部が一つの古墳に入れるわけではないが、血縁関係の中で資格を持っている人がいたのだと思う。古墳に入らないで、他の所に埋葬された人もいたのだと思う。

(議長)例えば上野三碑、山王廃寺などからもわかるように、それを支えるような経済的な馬という、群馬という地域を代表するような経済的なバックがある。そういうものとつながってくるという意味があるのか。その辺の位置づけはどういうものか。北毛のほうで中毛を支えるような、東国文化をバックアップするような経済的、軍事的に支えるような人たちの集団と考えられるのか。

(審議委員)元々群馬は、馬の生産拠点の一つだった。信濃、上野、甲斐、武蔵がヤマト朝廷の馬を独占的に、供給することを課されたわけだが、その中でも群馬というのは馬の生産で非常に大きな意味を持っており、それが群馬という県名のルーツになる。それは元の群馬郡の地域、今で言う高崎から利根川の西、高崎、前橋、渋川の旧子持村まで含めた所が一番盛んな馬の生産地で、それが拡大していく中で、利根地域が一気に生産を増やすことを古墳が示している。もちろんその時に、群馬の元々の平野部地域の榛名山の山麓とか、烏川、碓氷川、鏑川の流域でも盛んに馬生産をやっていたことが、遺跡の内容からわかる。

(審議委員)馬と群集墳の分布が関係あるのか無いのか。一般的に群馬県にどの程度分布していて、その地域の広がりがどこで、どの程度か。この群集墳がいつ頃からスタートしているのか。それが、必ずしも馬とは関係なくても動いているのか。
それからもう1点、墓制の関係。家族が全部入らない、何々家墓というのは明治の話で、前は無いです。

(審議委員)1万4千基以上は間違いないだろうと言ったが、その内の多くは小さい古墳だが、その大半は平野部とそれに面する桑畑になるような高台にある。多いのは高崎、前橋、太田にかけてのエリアに、圧倒的な数がある。小さい古墳が出てくるのは、古墳の歴史の中では後半部分。はじめは大きい古墳だけが、前方後円墳とか、大型の円墳が造られる。だから古墳に埋葬される人は、地域の支配者層という流れ。それが古墳時代の中で生産力が急激に上がって、鉄の農具だったり、工具だったりが一気に普及すると、経済基盤が強化され、それが社会の底上げをしていく。それが、古墳を造る枠組みの中に取り込まれ、小さい古墳が出てくる。階層的な差を大きさでもってつける。それから古墳に入っている副葬品の内容で差をつける。その中で大から小まであって、それで小が圧倒的に占めるという流れ。古墳時代の後半部分で群集墳が出てくる。

(審議委員)埋葬者は畿内の方から来た人と考えていいのか。

(審議委員)もちろん外から入ってくる人もいるが、基本は地元の人だと思う。その中で地域の序列・権力構造の中で大から小まで、前方後円墳から小型円墳まで、墓制のシステムとして機能させたということがあるのだろう。

(審議委員)奈良古墳群の解説を聞きながら、手元にある文化財保存活用大綱の33ページを見ていた。審議会長が長年こういう指針があることが、すごく重要だと言っていた意味がようやく分かった。奈良古墳群が文化財として指定された時に、確かに地域の文化財の把握がなされ、確実な保存管理が必要で、地域住民と連携した保存活用、文化財を活用した地域づくり、学校教育との連携、保存活用を担う人材育成、情報発信の強化など、私の中で申し上げるべきポイントが、この指針にあることでよく整理されたと思う。
そんな中で2点あり、小学校の授業で取り上げるのはいいと思うが、今後の活用の仕方は生涯学習になっていくのか、年齢層的にはそういう方が興味を持つのかと思ったのだが、生涯学習というのはこの中の1~7の中のどこに入るのか分からなかったので、今でなくていいので教えてほしい。文化財と生涯学習はとても親和性があると思うが、どうしても文化財保護課の手を離れることから、連携がないと日頃から感じている。
もう一つは、インバウンド、外国語表示、海外の発信。英語でも和食(ワショク)なのか、それともジャパニーズフードなのか、用語の統一というのが重要になってくると思うが、そこが県としての役割であると思う。各自治体が個々に看板を作ると、その場その場での英訳になりがちだが、県の大綱があるということで、そういった部分では県が決めていくことが出来ると思った。

(議長)他にいかがか。

(審議委員)今回の文化財の候補に限って申し上げたいが、今回のは、奈良古墳群の古墳を指定したいと思ったのだが、はじめ私はこの説明を見てそう思わなかった。説明資料のちょうど真ん中あたりだが、遺物の詳しい説明がある。しかし、遺物は指定案件ではない。指定理由としてこういう遺物が出た、ということを書かないと、この書き方だと古墳群とこの写真の後にある鐙とか、それまでいっしょに指定されるのかという、誤解を与えかねない。良い写真がたくさん入っているというのが、一つの感想。古墳群だけを指定するのだから、古墳群の内容だけを書けばいいのであって、こういう遺物が出たから重要なのですよというのは、古墳群を指定する理由だと思う。一見すると、遺物まで皆指定するような感じがした。

(審議委員)そう思われるのはもっともであるが、古墳群の特徴とか性格とか歴史的な意味とか、それは表裏一体の関係と理解していただければと思う。ここを切り離すと、この古墳群の持っている意味を、評価を定めることが出来ない。

(審議委員)もちろん重要なのは分かるが、書き方として理由と指定するものが渾然一体となっている。例えば「遺物は」というのが指定理由の中にすっと入ってくれば、本当にこの古墳群が重要なのだという気がする。ただ、この文書は今回指定する古墳群と、付属物である遺物の説明が渾然となっていて、大変分かりづらいと思う。
遺物の重要度は分かるが、ただこれを読むと遺物まで皆一緒に指定するのではないかというような感じがした。

(審議委員)よく読んでいただくと、おわかりいただけると思う。

(議長)その件については事務局の方で工夫し、間違いのないように私も確認したいが、古墳群という形で、古墳だけなのか、周辺の耕作地も含めてエリアとしてするのかどちらか。

(事務局)資料6ページにエリアの図がある。
(議長)この図の赤の全体を指定するのか。

(事務局)そうだ。

(事務局)その場合、ここから出土した副葬品の指定は別か。これはあくまでも理由付けということでいいか。

(審議委員)指定については異論ないが、今のエリアの問題で6ページの赤い線は、所有が沼田市になっている公有地の範囲として指定されるのか。そうすると、それ以外の所は民地なのか。見学に来た場合には、狭い道を通って見に来るのか。

(事務局)その点について、資料の地図を見ていただきたい。この赤いエリアの南側に、観光バスも入れる直線道路を、既に沼田市が造っている。また今回の指定エリア外である図の左下部分を、駐車場として利用でき、トイレも造れるようになっている。

(審議委員)この図で見ると、2号墳の西側の赤く入っていない部分は、駐車場か。

(事務局)そうだ。

(審議委員)「タ」という記号は何か。

(事務局)群馬大学が調査をしていた時の番号のふり方で、アイウエオで付けていた時期のものである。

(審議委員)1からの部分は。

(事務局)1からの部分は、後に沼田市が付けたものである。

(議長)「タ」というのは、これまでの検証というかその時の関係で、おかしいけれど変えるわけにはいかないものか。

(事務局)そうだ。

(審議委員)指定理由の最後の部分について、北毛地区を代表するという言い方になっている。中毛、西毛、東毛にもあるということになると、前段の1、2行のところで全ての地域にあるけれども、北毛地区で価値のあることは分かるのが、群馬県としての位置づけとした場合にどうなのか。他との比較はいらないのか。他の地域は、馬は関係ないけれど、群集墳はあるのかどうか。そのあたりを触れて、まだ調査が進んでいなくてはっきりしていないのか。北毛の文化財だったら指定できるというのではなく、群馬県全域としての比較をして、浮かび上がらせるための表現が必要である。県下にあるけれど整っていて残っているのはここなので、指定するというのならいいけれど、他にあるのなら、他にもあるけれど今回はこれだと言っておいた方がいい。残っている所はないという意味でいいのか。

(審議委員)状態の良いのはほとんど残っていない。残っているとすると高崎市で指定、公有地化している山名古墳群がある。他は大分無くなっている。ほとんど虫食い状態。ある程度、当時の姿が類推できるような景観を持っているような群集墳は無い。

(審議委員)であれば、県下にあまり無くて、群集墳で指定したと強調した方がいい。ただ北毛と言うと、他はもっとあるのではないかという誤解がでてしまう。

(議長)3万6千平方メートルが、赤い部分の1部ということでいいのか。

(審議委員)赤い部分が3万6千平方メートルである。

(審議委員)そこの中に13基がある。昔は59基あったけれど、破壊されたということか。

(審議委員)後の時代、地域の人がそれを崩せばもっと畑地が確保できるのだが、それを残した状態で耕作してきた。県内の平野部でなぜ少ないかというと、畑にして食糧増産しようという動きが大きかったので、戦後の中でどんどん無くなってしまった。工業団地などの開発が、すごいペースで始まった。玉村などはものすごい数があったのだが、そこが工業団地になっていって、現在では古墳が3つ位になった。そこも100基近くあったのだが、そういう所が多い。そのような状況の中で、地域の人が手を付けなかったというのも、すごく大きな意味があった。

(審議委員)群集墳としての指定は、記者発表の時に指定理由を読めば良いのではないか。「奈良古墳群は」という上に、県内では前方後円墳のような大型古墳が数多く指定されてきたが、群集墳の県指定史跡は無かったという意味で、ここの「奈良古墳群は」の後に、「県内の数多い群集墳の中では…」と入れれば、その辺の位置づけがはっきりする。県内には群集墳があるのだけれども、保存状態が良好だというのがポイント。そういうことだったのではないか。

(審議委員)気にかかったのは、「保存状態が良好な北毛…」ではなくて、「保存状態が良好な群集墳」として価値がものすごくある。同時に「それが北毛としての…」、という言い方じゃないと逆転している。内容はこれでいい。どういう位置付けだというのが重要。

(審議委員)内容の最後に、この古墳は埴輪を持たない、埴輪が置かれていないと書かれている。その中段に、石室の平面形状がトの字型の古墳は、県内では他に高崎市の1例が知られるのみと書いてある。この高崎市の1例は埴輪を持っているのか。それともここと同じように埴輪を持たない古墳群なのか。

(審議委員)場合によっては誤解を与えるような書き方だったのかもしれないが、群集墳として非常に良く残っている。高崎市もよく残っている。

(審議委員)高崎の古墳には埴輪がありそうだが。

(審議委員)高崎の古墳には埴輪があり、時期は奈良古墳群より古い。大きな目安として埴輪は西暦600年を境にして無くなるのだが、発掘調査をしない中で、埴輪を持っている古墳は必ずカケラ(欠片)がある。丁寧に見ていった時に埴輪が無いと、この古墳は新しく7世紀の初めだなと類推する。奈良古墳群の場合は全部を掘っているわけではないが、未調査の古墳の回りを見ても埴輪片が落ちていないことから、掘っているものと同じ時期で良いだろう。その理由付けで書いた。

(議長)そのへんの表現は検討してほしい。他に何かあるか。

(事務局)上の段の「高崎市の1例が知られているのみ」というのは、平面形状が「ト」の字型である「お春名古墳」のことで、そこには埴輪があり、石室構造がトの字型のものが1例ある。「遺物は…」という所からは話が変わってくる。山名古墳群とは、また別の話である。

(議長)これだけの群集墳がある。年代的に考えると、沖縄の墓に土をかけるだけのものがある。昔からの家は、家を見下ろす高台の所に今でもお墓はある。その辺のところを考えると、ここの位置というのは河岸段丘で水田ではなく畑作で乾燥している。集落との関係が出てくると思うのだが、集落遺跡との関係はすでに解っているのか。何らかの集落との関係は、大きな古墳の場合と違った意味づけができるのか。そのあたりはどうか。

(審議委員)古墳自体はそこにあるので、性格を理解できるが、集落も発掘調査しないといけないのだが、この地域はほとんど開発が入らない地域なので、発掘調査をする機会がほとんど無く、実態が分からない。間違いなく、奈良古墳群に対応するまとまりがある。まとまりに対応する墓地を造った集団がいる。その集落があって、期待・予測されるのが、馬の生産に関わる放牧地などがあるのだろうと思う。旧池田の地域で発掘調査が行われるようになると、色々なことが分かってくると思う。

(議長)山になっているところに群集墳が出てくる可能性はあるのか。

(審議委員)無い。古墳に石を使うことから川沿いが良いということと、使われていない土地ということになるので、範囲が決まってくる。

(議長)他に、あるか。今まで委員から出た意見で、若干手直しする点もあるかと思うので、それは部会長と私に任せていただきたい。奈良古墳群について、指定することが適当であると答申してよいか。
(委員の了承)
(議長)では、全会一致で奈良古墳群を指定することが適当であると答申する。

11 閉会

午後3時40分 文化財保護審議会の閉会

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