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上海レポート

 国際戦略対策特別委員 中沢 丈一

 国際戦略対策特別委員会は、平成24年11月6日から8日まで、中国・上海へ海外調査に行ってきました。目的は、群馬県が上海事務所を開設する計画があること。県内企業の上海工場・事務所事業実態調査。県への観光誘客のための対応についてでありました。時あたかも、尖閣諸島問題で日中関係が悪化していましたので、より中国事情の認識を深める必要があり、日程に従い調査してきました。
 まず、空港から在上海日本国総領事館に直行し、総領事より管轄区の状況を聞くことができました。年々在留邦人が増え、日本人学校には、小学校2校・中学校1校で約3千人の児童・生徒が学んでいるとのことなどから上海は魅力ある都市。観光誘客は、北海道と九州が積極的であり、特に九州は単独誘客ではなく、連携して取り組んでの成果を強調していました。上海市民は、日本の温泉に入りたい、本物の有機農産物を食べてみたい人が多くいるとのこと。中国の国民は、生活安全保障に不安を持っているとのこと。医療保険がない、老後が心配、少子化問題。庶民は、都市が農村を搾取している。特権階級批判の増大。求心力なく遠心力(地方に分散)が強くなっている。いつ中国が崩壊するか解らないとのこと等、丁寧な話を聞くことが出来ました。
 二日目、はじめに群馬県上海事務所設置予定場所に行きました。上海市の中心で交通アクセスも良い上海国際貿易センタービル内にあり、群馬県人・企業、サポーターとも連携・連絡がとれる適地でありました。ただし、事務所スペースが狭いことが気になります。
 その足で、同じビル内にある茨城県上海事務所を訪問しました。平成8年に設立され、様々な事業を展開していました。また、茨城空港からのアクセスをPRされ、群馬県とも連携をとりたい旨のエールを頂きました。
 昼食を忙しく取った後、信泰鹿島電子の工場を調査しました。群馬県内に本社を置きながら、上海工場は中国内の生産拠点で積極的な事業展開をしていました。EMS(電気機器受託生産)事業を展開している。0.6ミリ×0.3ミリのチップ、1ライン1億円、時間40分でラインを入れ替える離れ業等、先端技術を見ました。会長、社長(若い女性、中国人、高崎経済大学卒)の熱意ある話を聞くことが出来ました。そして、日中関係の改善をするため、尖閣諸島問題は棚上げしておいてほしいとの要望が出ました。企業人・経済人の第一線(現地)から出てくる重い言葉として受け止めました。
 片側3車線の高速道路、車から見える工業団地造成のクレーンの数の多いこと、住宅団地(マンション)ニュータウン建設のラッシュ、街路樹、植栽、公園整備。群馬県と同じ面積に2,400万人、上海の近代化・躍進の姿を見ました。車を走らせ1時間、東京海上日動火災保険(中国)有限公司にて調査しました。豊富な情報量とノウハウでもって、中国に事業展開する企業に対してリスクマネジメント面などでのサポートを行っていることがよく解りました。日中関係の悪化で、中国ビジネス戦略の練り直し、国家主席の交代への不安、経済成長課題、不買運動、物流の保障、保険の担保。“いばらの道であるが、捨てられない中国マーケット”中国(上海)支社長の言葉です。
 三日目の早朝、JTB(上海)国際旅行社有限公司にて調査を行いました。観光誘客については「どの県も熱心に取り組んでいるが、みな同じことを言っている。やっている。」と率直な話が出ました。旅行業関係者は、閉口しているようだ。まず、中国観光に来てから誘客を進める必要性を言われました。また、現状は、反日デモ騒動によって、日本国内への旅行は敬遠されているとのことでした。
 空港に向かうまでの間、僅かな時間がとれたので、支社長の案内で上海市内の地下街(日本出店街)に寄り“たい焼き”を一個ご馳走になりました。まさに、ここは日本かと錯覚しそうになりました。また、これから上海は“たこ焼き”がブームになりそうであり、ビジネスチャンスは幾らでもあるようです。
 アヘン戦争を終結させた1842年、南京条約により上海は条約港となる。1848年から1946年までフランス租界(外国人居住地)となり、上海は最高級の西洋的な美しい住宅街となった。プラタナス(鈴懸)の街路樹が色づき、まるでパリにいるような光景であった。上海での早朝のジョギングは格別であった。上海には、8千社超の日系企業が進出し、5万人超の日本人が住み、躍進する都市の中で活躍している。群馬県は遅まきながらでありますが、大澤知事の判断でようやく海外(上海)に事務所が設置されます。国際戦略、売り込む群馬、いま農産物も食物検疫の関係で輸出が止まっています。「中国・上海に上州牛を!」、中国は群馬のコメや果物を求めています。
 2013年、中国、東南アジアの活動拠点“より羽ばたく群馬”のための群馬県上海事務所の開設を心待ちにしながら、上海(浦東空港)を後にしました。