ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織からさがす > 知事戦略部 > メディアプロモーション課 > 【tsulunos PLUS(ツルノスプラス)3月号】話題のあの人に注目!ツルノメ 1

本文

【tsulunos PLUS(ツルノスプラス)3月号】話題のあの人に注目!ツルノメ 1

更新日:2021年3月7日 印刷ページ表示

渋沢栄一と富岡製糸場

渋沢栄一の銅像の画像
写真:深谷市

ドラマや新一万円札で注目される渋沢栄一(しぶさわえいいち)。現在の埼玉県深谷市出身の渋沢は、養蚕業にも詳しく、富岡製糸場の設立にも関わっていた。今回のツルノメは渋沢栄一と富岡製糸場の関わりを通して、その価値を深掘りし、見つめ直します。

1 渋沢栄一を知る

幕末から昭和まで、激動の時代を生きた渋沢栄一。官営富岡製糸場の設立など、さまざまな産業・経済の発展に携わり、生涯日本の近代化に尽くしました。
その功績を深掘るため、40年以上にわたり“渋沢研究”に取り組む群馬県立女子大学の片桐庸夫(かたぎりのぶお)名誉教授に伺います。

研究者が選んだ 渋沢栄一を知る3つのキーワード

  1. 近代日本経済の父…生涯で約500の会社設立に関与
  2. 貿易立国・日本を目指して…輸出品ナンバーワンの生糸に注目
  3. 幅広い分野で活躍…福祉、教育、民間交流などさまざまな事業に尽力
1.近代日本経済の父

 パリ万博遣欧使節団として海を渡った渋沢は、欧州の近代化に衝撃を受け、帰国後日本の近代化を目指します。銀行、鉄道、織物、化学、商事などの主要産業を含め、生涯で約500の会社設立に関与。株式会社という体制を作り上げ、東京証券取引所を開設するなど今も続く日本の経済界の礎を確立しました。

パリ万博遣欧使節団の画像
徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の弟、昭武(あきたけ)らと渡航したパリ万博。渋沢(後列左端)は会計係として参加した。写真:毎日新聞社/アフロ

2.貿易立国・日本を目指して

 近代化のためには、貿易立国となることが重要であるとした渋沢は、外資獲得のため日本の輸出品に注目します。当時の輸出品ナンバー1は生糸。絹産業の高品質化と大量生産を目指します。これが富岡製糸場の設立につながります。

3.幅広い分野での活躍

 実業家としての顔が一番有名ですが、福祉、教育、民間交流(国際交流)といった多くの事業に携わったことも近代日本経済の父と呼ばれるゆえんです。生涯を通して弱い立場の人に優しい目線を送り続け、孤児院や病院を設立し、近代化のため、人材育成としての学校設立などに関与しました。その数は約600に達します。

青淵文庫の画像
東京都北区に残る渋沢の書庫、青淵(せいえん)文庫。接客の場としても使用された。写真:PIXTA

行ってみよう!
中の家(なかんち)

渋沢栄一の生誕地に、明治28年に栄一の妹夫妻により上棟された建物。栄一も帰郷の際に立ち寄った。

中の家(なかんち)の画像
写真:深谷市

渋沢栄一記念館

渋沢栄一ゆかりの遺墨(いぼく)や写真資料を収蔵している。本人の肉声を聞くことができる展示もある。

渋沢栄一記念館の画像

渋沢栄一

パリ万博から帰国後、日本の近代化を目指し、生糸の品質向上と増産のため、富岡製糸場の設立に携わる。福祉や教育の分野でも活躍。近代日本経済の父と呼ばれている。

渋沢栄一の画像
深谷市所蔵

渋沢栄一の年表
西暦 和暦 年齢 主な出来事
1840年 天保11年 0歳 現在の埼玉県深谷市に生まれる
1864年 元治1年 24歳 一橋慶喜(徳川慶喜)に仕える
1867年 慶応3年 27歳 パリ万博使節団として欧州へ
1870年 明治3年 30歳 官営富岡製糸場設置主任となる
1873年 明治6年 33歳 第一国立銀行の総監役に就任
1885年 明治18年 45歳 日本郵船会社創立、東京養育院院長
1887年 明治20年 47歳 日本煉瓦(れんが)製造会社設立
1909年 明治42年 69歳 渡米しタフト大統領と会見
1926年 大正15年 86歳 ノーベル平和賞候補となる
1931年 昭和6年 91歳 永眠

注目 大河ドラマ「青天を衝(つ)け」(NHK)

大河ドラマ「青天を衝け」(NHK)の画像

<ストーリー>

幕末から明治を駆け抜けた実業家・渋沢栄一。農家に生まれた栄一は、幕末の動乱期に尊王攘夷思想に傾倒する。しかし、最後の将軍・徳川慶喜との出会いで人生が転換。やがて日本の近代化に向けて奔走していく…
<主演>吉沢亮 <作>大森美香 <音楽>佐藤直紀
<題字>杉本博司 <放送予定>毎週日曜日 総合 午後8時/BSプレミアム・BS4K 午後6時(再放送)毎週土曜日 総合 午後1時5分

2 富岡製糸場と渋沢栄一の関わり

製糸場の設立を提案

 日本の主要な輸出品であった生糸に注目した渋沢。高品質・大量生産を目指し、伊藤博文(いとうひろぶみ)と共に、機械式の生糸生産を政府に提案します。計画は受理され、その後政府の窓口として、富岡製糸場の設立に携わりました。

いとこを初代場長に

 初代の場長にはいとこの尾高惇忠(おだかあつただ)が就任。若い頃には、尾高を「学問の師」として学び、養蚕の知識も豊富だったことから絶大な信頼を寄せていました。

製糸場のれんがにも関わりが!?

 製糸場のれんがは、渋沢の出身地である深谷市から和瓦職人を集めて生産されました。のちに渋沢は深谷市に日本煉瓦を設立。そのれんがは、めがね橋(安中市)や東京駅にも使用されました。

富岡製糸場を訪れた渋沢栄一の画像
富岡製糸場を訪れた渋沢栄一(中央左)と、フランス人指導者のポール・ブリュナ(中央右)。
「富岡製糸場構内」東京国立博物館所蔵 Image:TNM Image Archives ※許可なく複製することを禁じます

めがね橋の画像
通称「めがね橋」と呼ばれる碓氷第三橋梁(明治26年開業)は日本最大のレンガ造りの橋。国指定重要文化財。
写真:ググっとぐんま写真館

シルクイズ!?(1)

渋沢栄一が設立に関わった企業数は?

A.100社
B.500社
C.1,000社
※答えは「【tsulunos PLUS(ツルノスプラス)3月号】話題のあの人に注目!ツルノメ 2」のページをご覧ください

取材協力:片桐庸夫(群馬県立女子大学名誉教授)

次のページ「【tsulunos PLUS(ツルノスプラス)3月号】話題のあの人に注目!ツルノメ 2」のページへ

tsulunos PLUS 3年3月号 もくじのページへ戻る