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上毛かるたと養蚕
昭和22年、群馬にゆかりの歴史上の人物や名所、名産等を詠んだ上毛カルタは、郷土カルタとして、今でも県内各地で大会等が行われています。小学生のころたたき込んだ知識で、大きくなってからも、「あ」から「わ」まで全部詠めるぞ…と言う方も多いと思います。
さて、この44枚の札のなかには、群馬経済と蚕糸業との密接な関係を背景に、養蚕に直接的、間接的に関わる札が多くあります。いくつか、紹介してみましょう。
繭と生糸は日本一
寛政6年(1794年)に上州渋川の吉田友直(芝渓)が著した「養蚕須知」には、「我が上毛の国は養蚕昔より多くして海内第一といへり」とあります。
記録のはっきりしている明治以降、繭の生産量は、長野に次いで全国2位で、昭和29年以降は、一貫して全国1位の生産量を誇っています。また、生糸の生産量も全国1位です。全国の繭生産量の37%、生糸生産量の62%が群馬県産です(平成30年)。
県都前橋生糸の町
安政6年(1857年)に横浜港が開港されると、輸出の花形商品として生糸をもって一番乗りしたのが、前橋の生糸商人でした。前橋藩は、藩をあげて蚕糸に力を注ぎ、我が国初の製糸の機械化に取り組みました。このとき仲介役として活躍し財をなしたのが、吾妻郡嬬恋村出身の中居屋重兵衛です。生糸は、横浜と前橋を結び、文化交流が始まりました。そして、西洋思想として入ってきたのが、キリスト教でした。明治以降の群馬百年を振り返るとき、蚕糸業とキリスト教は、本県において特筆すべきことと言えます。
関東と信越つなぐ高崎市
我が国最初の鉄道として、新橋−横浜間が開通したのが、明治5年。その12年後の明治17年に、我が国最初の私鉄として誕生したのが、上野−高崎間の現在の高崎線です。同年前橋まで開通したこの鉄道は、長さ108キロメートル、工費約350万円。今の金にして百数十億という巨費を投じたものでした。その後、現在の両毛線、上信電鉄、八高線、信越線と全国に先駆けて整備された鉄道網は、新たなシルクロードとして、繭を、生糸を、絹織物を運び続け、本県の近代化を支えました。
縁起だるまの少林山
この札は、高崎市にある少林山を詠ったものです。例年1月6日・7日開催の七草大祭だるま市は、地元はもちろん、各地からの参詣人でにぎわいます。正月のだるま市は、前橋市や藤岡市など、県内各地で開かれます。養蚕農家は、養蚕倍増や豊蚕祈願などと書いてある目無しだるまを買って神棚などに祀り、年の暮れに右目を入れて奉納しました。だるまは、起き上がりこぼしです。蚕の齢眠の「起き」と、上蔟の「上がる」にちなんで豊蚕を願ったものと言われています。
歴史に名高い新田義貞
群馬県における養蚕の起源は、続日本紀の、和銅7年(714年)上州から「あしぎぬ(上絹ではなく太絹のこと。)」を上納した頃であろうと言われています。その後、中世において、多野郡吉井町周辺の帰化人の伝えた日野絹、天平年間に奉納され正倉院に保管されている桐生地方を産とする仁田山絹は、上州の特産品となりました。
この仁田山絹は、元弘3年(1333年)新田義貞が新田郡生品神社で旗揚げしたときの軍旗に使われていたと言われ、徳川家康も、関ヶ原の戦で、仁田山絹の軍旗を押し立てたと言われています。
その他、日本で最初の富岡製糸、銘仙織り出す伊勢崎市、桐生は日本の機どころ、老農船津伝次平なども、養蚕に関わる札といえます。