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群馬生まれの蚕と桑品種

更新日:2011年3月1日 印刷ページ表示

 現在の蚕は、一代交雑種といって、異なる系統の雌雄を掛け合わせたものです。群馬ブランド蚕品種として育成された蚕も、群馬県蚕糸技術センターが、保有する多くの系統を様々に掛け合わせ、作出したものです。
 しかし、大正期以前は、在来種といって、各地方で育成された蚕が、種屋さんをとおして、養蚕農家で飼育されていました。当時は、「信州の種はよく当たる」と言われ、長野県産の蚕の種が多く入ってきましたが、県内でも多くの品種が育成され、農家で飼われました。
 また、桑は、昔から接ぎ木で繁殖させるため、蚕よりもさらに各地方で、独自の品種が選抜、育成されました。現在確認されていない品種を入れれば、県内の地域ごとに特有の品種があったといってもいいかもしれません。
 その主なものを、紹介しましょう。

群馬生まれの蚕

1 青白(せいはく)

 明治のはじめ、イタリアで蚕病が発生した際、日本から輸出された蚕種の2割が群馬県のものでした。明治12~13年、境町の島村勧業会社が、蚕種を携えてイタリアに渡り、直売を試みた話は有名です。このときの蚕が、青白でした。この品種の起源は、諸説あるそうですが、「蚕事真説」によると、文政年間(1820年頃)織茂周平宅(現藤岡市)にて選抜・育成されたとのことです。

2 鬼縮(おにしぼ)

 嘉永2年(1849年)頃、佐藤国太郎(現富岡市)によって選抜された品種です。軽め絹の原料に適するこの品種は、西上州の特産品の平絹用に向く品種として、県内はもとより、信州、甲州、野州、奥州にかけて、明治時代まで利用されていました。

3 塩原又(しおばらまた)

 現前橋市田口の蚕種製造家塩原佐平が、明治のはじめに黄繭(青白種)の中から選抜した白繭品種で、塩原産の又昔として「塩原又」と呼ばれ、県下で利用されたほか、県外にも普及しました。

4 白玉(しらたま)

 高山長五郎(高山社)の実弟木村九蔵が、明治13年に選出した品種です。良種の評判高く、全国に普及し、明治30年前後が全盛時代でした。

5 白鶴(しろつる)

 田島弥平が、明治37年に選抜・育成した品種です。虫質強健で特に多湿環境に強いと言われ、大正期には広く普及し、大正後期から昭和のはじめにかけて、夏秋蚕一代雑種の原種として利用されました。

 その他、大又、白綾等の品種が育成されましたが、そのほとんどは現在無くなってしまい、いくつかの品種を群馬県蚕糸技術センターで保存しているにすぎません。

群馬生まれの桑

1 群馬赤木(ぐんまあかぎ)

 別名神座、総社桑と呼ばれ、享保年間(1725年頃)、現前橋市総社町の小野沢甚三郎が発見した品種です。昭和のはじめまでは、県内第2位の栽培面積でしたが、昭和30年代にほとんど無くなってしまいました。

2 多胡早生(たごわせ)

 文政年間(1818年)の頃に本県で発見され、特に旧多野郡多胡村で盛んに栽培されました。昭和のはじめまで、県内第1位の栽培面積でした。桑の実(ドドメ)のよくなる品種として、今注目されています。

3 大島桑(おおしまそう)

 明治26年、旧佐波郡三郷村太田の板垣軍蔵が魯桑実生中から発見しました。その後同地の大島喜蔵が苗木を育成したので、育成者の姓をとって大島桑と命名されました。

4 叶屋(かのうや)

 明治のはじめ、現吾妻郡中之条町の鹿野某が選出増殖した品種です。叶屋は、選抜者の屋号から命名されました。昭和のはじめには、吾妻地区で1位の栽培面積でした。

5 板東(ばんどう)

 別名島之内とも言います。文政年間(1818年頃)には、旧利根郡新治村で盛んに栽培されていたと言われ、昭和のはじめには、利根地区で1位の栽培面積でした。現在、木工品材料としての価値が再評価されています。

 その他、陣馬、富栄桑、馬山大葉等、県内各地で多くの桑品種が育成されました。現在でも、そのほとんどは、群馬県蚕糸技術センターで保存されています。