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ひゅうまにあ通信39号

更新日:2011年3月1日 印刷ページ表示

ふるさとづくり奨励賞受賞団体 粕川フラワーロードの会の活動様子写真

コンテンツ

平成20年度地域づくり講演会講演録

  • 演題:「若者を主人公に~地域活性化の挑戦・体験から」
  • 講師:WWB/ジャパン代表 奥谷京子さん

平成20年度 群馬ふるさとづくり賞受賞団体の喜びの声

  • 特定非営利活動法人時をつむぐ会(高崎市)
  • 粕川フラワーロードの会(伊勢崎市)
  • 中之条観光ガイドボランティアセンター(中之条町)

地域づくりの現場から

  • 地域安全センター(高崎市)

平成20年度地域づくり講演会講演録

~地域づくり講演会~

 平成20年6月30日、総会終了後にWWBジャパン代表の奥谷京子さんをお招きし、「若者を主人公に~地域活性化の挑戦・体験から」と題し、講演していただきました。
当日は、若者を取り巻く様々な取組を紹介していただきました。

~講師プロフィール~

 慶應義塾大学総合政策学科社会経営コースにて人事・組織設計を専攻。大学卒業と同時に、女性の経済的自立を支援する女性のための世界銀行Women’s World Bankingの39番目の支部「WWB/ジャパン」に入社。起業支援、地域活性化プロジェクトにも取り組む傍ら、日本の農業についても応援。2005年より代表に就任。

「若者を主人公に~地域活性化の挑戦・体験から」 WWB/ジャパン代表 奥谷京子さん

WWBジャパンの活動

 ご紹介いただきましたWWBジャパン代表の奥谷と申します。ちょっと舌が絡まりそうな名前で、しかも女子プロレス団体のような名前ですので、女子プロ団体の人かと思われるかもしれないですけれども、私自身は女子プロレスはやっておりません(笑)。

 WWBジャパンは、女性起業家の支援団体ということで活動している団体で、Women's World Bankingという世界的な組織がございます。2年前くらいに、ムハマド・ユヌスさんという、バングラデシュのグラミン銀行の総裁をやっている方がノーベル平和賞を受賞されましたけれども、まさにあの仕組みというのが世界に徐々に広がりつつあります。Women's World Bankingでは女性の貧困層の経済的な自立の支援をやろうということからもともと立ち上がった団体で、私どもも同じような形で、1990年から日本では支部としてやらせていただいています。日本では、貧困層云々というよりも、とにかく女性の方たちが何か始めようと思っても、なかなかお金が借りられないとか、離婚しているとか、いろいろなことで自立したいのに自立できないという女性がいるという現状が古くからありまして、それを応援する団体ということで90年から活動させていただいています。

 私どもの概要は、主には起業家スクールということで、起業家養成講座を全国各地でやっています。この講座の卒業生が今6,000人近くいますが、その中の1,000人以上が実際に事業を興してやっています。それが、私たちの活動の柱の一つになっています。

実践編-カフェ経営

 そのほかに、ただ教えているだけでは全く説得力を持たないので3年ほど前からカフェの運営を始めました。偉い先生が言うことは大体現場と離れているアドバイスが多くて、「人件費を詰めろ」、「原価を抑えろ」と言われてどのくらい大変なことなのか、やはりやってみないとわからないということで始めました。

 カフェといっても、もともと私たちの事務所の机があったところを取り外して、そこに本棚を置いて、郷土色の強い雑誌やスローフードに関する雑誌などを置いて、いろいろな情報が得られるようにしています。それから食にもこだわっておりまして、マクロビオティックという言葉があると思いますが、要は玄米菜食で、玄米御飯とか、有機栽培でつくったお野菜を中心に、お肉類・お魚類は一切除去した形の植物性だけでつくられるような食事を実際に出しています。雑穀とか今ブームになっていまして、そういうものをメーンにつくっています。おかげさまで、3年やって、最近やっとあちこちの方に浸透して、人も集まるようになったかなという感じです。

アフターフォローもきちんとやります

 一つは、アレルギーを持っているお子さんが外食できないという悩みが多いというのは感じます。

 それから、お客様を呼び込むのがどれだけ大変なことかというのも常々感じることです。大体の傾向値として、お給料明けは人が来やすいとか、お給料日前は人が来にくいなど、そういう傾向があるようですね。それによって、今日はもうこれしか炊かないでおこうと思っていたらお米が全然足りなくなって、あわててお米を炊いたりとか、あるいはものすごく余ってしまったりとか、何が起こるかやってみないとわからない部分がたくさんあるなというのも感じます。

 それから、18年の実績をいただいて今厚生労働省の「メンター紹介サービス事業」という女性起業家向けの仕事をやらせていただいています。女性は事業を始めるけれども、スパッとやめちゃう方が非常に多くて、子育てとの両立だったり、勢いで始めちゃったものをどうやって継続させていくかであったり、そういう悩みを先輩方にアドバイスしてもらうというような会を全国各地でやっています。ぜひ群馬県でもやれればいいなと思っていますけれども、今年は30カ所でやる予定で、費用は全部厚生労働省の方から出ますので、場だけセッティングしていただければ私はいつでも参ります。そういう悩みを打ち明けたりする場が非常に少ないということで、実際に地元の方たちと女性経営者の方が集まる場を全国各地でつくったりですとか、それぞれの困ったことを解決するということで、新しい商品開発をするなど、お仕事の一つとしてやらせていただいています。

 その他、起業支援もやっていますが、では、女性だけなのかと言われると、一応今は男女にかかわらず講座は受けていただけるようになっていますので、男性の方も女装せずに、いらしていただければと思います。

 やはり事業化していくことがすごく難しい時代でもあるのですが、目のつけどころとか、何かのヒントでうまく事業化していけるものがたくさんあると思うのですね。なので、今日はそんな実践例の紹介なども含めながらお話をしていけるといいかなと思います。

歴史を知るということは…

 群馬の富岡製糸場は今度世界遺産登録にリスティングされている地域になりましたよね。実は後でビデオを見ていただきますが、それはこの間世界遺産になりました石見銀山の近くでやっている旅館の話です。私たちがこの旅館をやり始めたのが2年ほど前で、世界遺産になるかどうかで揺れていた時期でした。ちょうど世界遺産に向けていろいろな準備が行われた時期から私も島根県に入らせてもらったので、きっとこのあたりも今活性化に向けていろいろやっていらっしゃるだろうなと思って聞かせてもらいました。

 では、事前にどういうことをやっていたかというのを少しお話しすると、一つは、厚生労働省の緊急雇用対策事業で大田市が、人づくりということで、世界遺産に向けていろいろな雇用対策事業を行っていました。例えばガイドの養成とか、観光関係に従事する方、それから、石州瓦という瓦が結構有名な地域ですけれども、そういう瓦産業、それから、食の開発、高齢者向けの講座、観光のホスピタリティの講座など、私たちも幾つか講座を担当させてもらい、いろいろと仕掛けてやっていました。

 ここもそうだと思うのですが、産業遺産ってあまりぱっとしないですね。石見銀山なんて、建物ではなくて洞穴ですから真っ暗。それだけのところにどうやって人を寄せるのかということがすごく大きな課題の一つだった。

 歴史を聞くと悲しく、本当にここが世界遺産になっていいのかなと思います。掘り子さんが銀を盗まないように、冬場もふんどし一丁で中に入っていく。それぞれがサザエの貝殻の中にろうを詰めて、そのろうそくの灯だけでずっと掘り続ける。掘る道具も大したものではなくて、1日1人が30センチくらいしか掘れないという肉体労働を強いられて、何百人、何千人という人があの真っ暗の中でずっと掘っていた。しかも銀がちゃんと管理されているか見るためにお殿様が馬でそのまま入れるように2メートルくらいの穴が掘ってあるのです。馬を降りて歩けば1メートルの穴で済んだものを、2メートルの穴を掘らせて、何という人だと私は憤りを感じました。

 でもそういうことを知ると銀という価値がおもしろくて、「東方見聞録」、マルコポーロの文献に、江戸や京都は書いてないけれども、石見は書いてあるのです。ポトシ銀山と石見銀山というのは同じくらいの格で扱われていたというような文献が書いてあって、実はそれくらい世界に知れ渡る大きな拠点でした。

 それから、「もののけ姫」という宮崎駿さんの映画の中にも出てきたタタラ製鉄という鉄の技術、あれも近くにありますが、そういうのが朝鮮などから流れてくる。そういう大きな拠点のところにあった地域だったということがわかって、うちの旅館で、感謝とお返しの外交をやろうということで運動をやっています。シルクロードを通ってきているものが非常に多いということで、シルクロードの原点だった中近東の国々に、今の日本の技術をお返しできないかと若い人たちが中心にプロジェクトを組んでやっています。そんなことを展開しております。

大学時代の経験から

 そもそも私自身、なぜこんな仕事をやり始めたのかという、簡単な自己紹介も含めてお話をしたいと思います。大学時代に課外活動でボランティアをやりたい学生と企業・福祉施設などのマッチングを行うという仕事を経験させてもらいました。まだ阪神・淡路大震災がある前だったので、そのころボランティアを簡単にやらせてくださいとはなかなか言えないような時期だったのかなと思います。それぞれのところに人不足が発生していた、あるいはそういうことを一人でも多くの人に知ってもらいたいと思っている人たちがいることを知って、逆にそういう人たちをつなぐ仕事というのはすごくおもしろいなと思って、今の仕事に入ったというのがきっかけです。

師匠との出会い

 私が今の仕事に出会う一番の大きなきっかけだったのが、私の師匠の片岡勝に出会ったことでした。彼は、大手の金融機関に16年くらい勤めた後、管理職になる前にやめ、1年間放浪の旅に出て、世界でいろいろなものを見てきたのです。

 例えばエコバンクというドイツの銀行があるのですが、志のある人から預貯金を集めて環境にいいと思う事業にしか投融資しないという専門の銀行が80年代にはあったのです。それを見て、そういう志のお金を集めて投融資するっておもしろいなということから、彼は市民バンクという融資制度をつくったのです。日本ではものを担保にというのが当たり前だった時代に、夢を担保に、担保は必要とせずにお金を貸すという仕組みを信用組合協会さんと一緒にその当時にやっていました。それから、もう一つ、第3世界ショップという、日本で草分け的なフェアトレードをやっている団体を立ち上げた一人でもあります。

 その彼がノルウェーに行ったとき、クリスマス前にすごくにぎわっているお店があって、そこに列をなして並んでいたから、何でここに並んでいるのだ、物が安いからなのかと、ついつい銀行の見方でいろいろと聞いてしまったら、地元のお母さんの「そうではない、これは実際に買うと娘にもプレゼントになるけれども、南の国の人たちへのプレゼントにもなるのだ」というこの一言にぐっときちゃうわけですよ。そのころはまだ日本も途上国のものを買ったりするということはないような時代でしたけれども、買うことで仕事づくりになるということが、ODAでお金をばらまくよりももっと有益なのではないかということに彼は気付いて、日本に帰ってコーヒーの仕入れをやったり、民芸品を輸入してきたりということを始めました。85年くらいでした。

そういう活動が徐々に定着したころ、私はその団体を知って入ることになります。

1000件以上問い合わせがあったらビジネスになる

 女性の起業を支援する、お金を貸す、フェアトレードのような貿易をやるなど、いろいろな分野をあれこれやって、何か一貫性がないように見えるかもしれませんが、実は全部必要性があって、ニーズから生まれた事業ばかりです。そのころに彼がいつも口癖で言っていたのが、「1,000件以上問い合わせがあったら必ずビジネスになる」。例えばフェアトレードのコーヒーを商社ではなく民間の団体で初めて仕入れたというのはニュースになりました。大手の商社からは、そんなことを小さな会社がやってもどうせうまくいかないからやめておけという、よからぬアドバイスから、そういう豆があるなら私の地域でもぜひ仕入れて売りたいと言ってくださる主婦の方までいろいろな方の声が1,000件以上ありました。その中でも特に女性が自分でお店を持って仕入れたいというのが多かったのです。でも、お店を立ち上げようと思ったらお金が足りない、どうやって始めていいのかわからない、女性の方たちが仕事をするなんて25年前は考えられないというような時代でしたので実際にお金を貸す制度をつくり、ノウハウを教えるという事業をやり始めました。85年から90年くらいの話です。

学生を社会起業家に

 おかげさまで今では、いろいろな方がビジネスを興して、市民バンクで175件ぐらいの方に融資をしていますが、いまだに1件も貸し倒れがないです。つぶれない事業、踏み倒さない事業にだけお金を貸すという形でやってきたおかげでいろいろなところから声もかかるようになってきました。

 さらに、全国で起業家スクールをやる中で、女性だけではなくて、若い人たちを何とか鍛えてくれないかと、大学から結構声がかかるようになってきたのです。95~96年くらいから、その当時、法政大学で人間環境学部という新しい学部ができるから、ぜひそこの講師に入ってくれということや、山口大学や島根の大学、それから今私がやっている松山産業能率大学や駒澤大学など、私と片岡で手分けして行くようになりました。その中から実は学生を社会起業家にしていこうというような動きがだんだんと出てきました。

学生耕作隊

 講演前に、たまたま「学生耕作隊」の近藤紀子のことを知っているというお話を聞きました。そのことをお話しますと、私たちは、授業の中で学生の考えていることをプロジェクトにしたり、事業にしたりというのをずっと応援しています。大学の授業は1年間を通しても二十数コマぐらいしかないので、90分の授業だけで事業家に仕立てるなんて到底できないのです。ですから、1回のコマが終わってからどこかでみんなに御飯を食べさせて、いろいろな話を聞く中から興味のあることを引っ張り出してきて、それを形にしていきました。それでは足りない子は、うちの事務所に来てもらい、パソコン等を自由に使ってもらう中から実際に形にしていったのです。「学生耕作隊」というのは山口県にあるNPOで、近藤紀子という女性が実際に立ち上げたビジネスです。

問題意識が事業に

 彼女は、大学の3年生のとき、私と片岡がやっている山口大学での授業を受けにきました。そのときに彼女は実家が農業をやっているということで、自分の地域が高齢化し、耕作放棄地がどんどん出ていることにある程度の危機感を感じつつも、自分で何をしていいのかわからないという問題意識を話してくれました。あるとき、何がやりたいか聞いたら、「お手伝いをしてくれる人たちを集めて、例えば手を骨折しちゃったというおじいちゃんが出てきたらかわりに助けてくれる人を補てんするような仕組みが私は必要だと思う」と言ったので、ではやってみたらと実際にそれをお手伝いする形にしました。ネーミングやNPO法人の立ち上げ方などを私たちがアドバイスして、事業計画をつくって始めました。

彼女が特徴的だったのは、ある意味すごく図太いというか、無神経にあちこちに飛び込みで行けるという強さを持っていることです。最近の男の子はやわですけれども、女の子は非常に強いですね。彼女は3年生だったのですが、1年生のところに行って、今農業に対して興味のある子はどのくらいいるかというのを調査したいと全学部の先生にお願いしてアンケート調査の紙を授業中に配らせてもらいました。農学部、文学部、経済学部、医学部、とにかくいろいろな学生に配って、1学年の子がどれくらい興味あるのか調査したところ、約6、7割の人たちが、興味があると答えてくれた。「もしそういうチャンスがあるとしたら私もお手伝いしたい」と手を挙げてくれた子が半数以上いたというのです。実際にその結果を見て、これで私はやれるかもしれないと思って、彼女は農業で困っている人たちが私の周りにたくさんいるから、そこに学生を派遣し、農家と学生をつなぎ始めました。現在で6期目くらいになりますが、年間2,000人ぐらいの人たちを農業の現場に派遣しています。

とうとう畑を持つまでに

 彼女は、大学を卒業してしまいましたが、今でも派遣の主流は山口大学の学生さんです。最近は学生だけではなくて、地元にUターンで帰ってきたシニアの方たちの「シニア耕作隊」というのを結成して、「学生耕作隊」と競わせることをやり始めています。そうなると農家さんが、お願いする作業内容によってシニアの人が適性なのか、学生の人が適性なのかを賢く選べるようになってきたという話も最近は聞いております。

最近、大変だなと思うことは、高齢の農家さんからそろそろ引退したいので畑を助けてくださいという声がすごく増えてきていることです。「学生耕作隊」の人たちが一生懸命やってくれるから、ここは全部譲ると言ってくださる方もいて、今譲り受けたのがお茶園、ヤーコン畑、稲作、ミカンとブルーベリー畑。「学生耕作隊」は、日ごとにどんどん大きくなってとうとう畑を持つまでに至ってしまいました。実際に手入れをしながら、ほかのところへもお手伝いに行くという形でどんどん応援してくれる人たちを増やしているという現状です。

 地道に取り組んでいる活動を見てくださっている方たちが、「学生耕作隊」の活動は非常におもしろいということで、当時の安倍首相が近藤紀子を呼んでくださり、全国のおもしろい事例の一つとして紹介してくれました。

チャレンジショップ

 このように活躍するようになっている子がほかにもいます。千葉県木更津には、駅前にそごうがあったのですが、すぐにつぶれてしまいました。その当時、ほとんどの店が撤退したけれども、何とかそこを活性化したいという市長の思いがあって、8階を市民の人たちのためにチャレンジショップを始めたのですね。当時法政大学にいた筒井君という男の子が、チャレンジセンターを運営するということで大学2年生のときに会社をつくって、卒業した今でもそこで活動しています。彼も27歳で、近藤紀子さんと同い年です。

 今、彼のところでは、市民の人たちに自分の夢をかなえたい、特に女性の方たちがリサイクルショップをやりたい、ネイルのサロンをやりたい、あるいは男性の方たちでもNPOの集まれる場が欲しいということで、いろいろなスペース貸しをしています。スペース貸しをしつつ、経営のアドバイスや情報化での支援など、若い人たちが得意なところをうまく組み合わせて活動をやっていますが、それだけではほとんど食べていけないのです。

 彼も大学を卒業して自分で生計を立てていかなければならない身になったので、最近では精神障がい者の作業所をそこでやるようになりました。そごうの跡地ですから、オープンスペースで、そんなところでやっていいのかしらと思われる方もいますが、これが逆にすごくいい効果を生んでいます。

 やはり人の目にさらされる、人と接する機会があるというのはすごくいいことで、一人のてんかんを持っている方が開業資金30万円でカフェを始めたのです。そのカフェというのが「アンダンテ」という名前で、本当にゆっくりしたスピードで出してくれるカフェです。コーヒー代を出しておつりをもらうまでに30分くらいかかりますが、すごく丁寧にこだわりを持って出してくださるのです。そういうこだわりというのが彼らの特性としてあるので、おじいちゃん、おばあちゃんとかが喜んで遊びにきてくださったりします。一人がそうやってカフェを始めたというと、周りの人の競争意識が芽生えてきて、それぞれ得意なことがどんどん伸びていくのです。

 学生のときに持っていた問題意識を徐々に形にしていき、事業化に結びつけていくことをやり始めております。

 ここで、ビデオを紹介したいと思いますが、このビデオは、島根県の吉田屋旅館の話です。そこは97年の創業を誇る老舗の旅館ですけれども、やはり後継者がいなくて27歳の女の子が引き継いだという旅館です。仲居も大学生ということで、若い人たちを中心とした形で旅館経営をやっています。

ここは温泉津、山陰の温泉町です。明治時代創業の旅館は、客が減り、後継者もいませんでした。そんな旅館の再生に挑んだ一人の女性がいます。山根多恵さん、27歳。この旅館の新しい女将です。ともに働くのは二十歳前後の若者たち。若者のパワーを生かして旅館に活気を呼び戻しています。

日本海に面した島根県大田市温泉津町、1300年の歴史を持つ温泉街だ。客は20年前に比べて半分近くに減った。町は高齢化が進み、65歳以上が4割を占める。山根さんが経営を引き継いだのは創業97年になる老舗旅館。

それまで老夫婦だけで続けていたこの旅館は、跡継ぎもなく、廃業の危機に直面していた。そこに山根さんは若者たちを引き連れてきた。旅館の経験者は一人もいなかったが、先代のおかみからノウハウを学び取り、若者たちだけで切り盛りをする。

 さらに、旅館の客を増やすために若者の感覚で新しい試みも積極的に始めている。例えば客室に備えてある旅館の案内に一工夫加えた。デザインが得意な学生が手書きのイラストで旅館周辺の観光ガイドをつくった。ほかにも目の前の海で楽しむシーカヤックの体験教室や地元出身の学生による観光案内ボランティアなど、新しいサービスを数多く生み出している。こうしたサービスが人気を呼び、減っていた客足も回復した。

 旅館の女将になるとは夢にも思わなかった山根さんは、山口県の出身、地元の大学に進学し、ごく普通の大学生活を送っていた。そんな山根さんの転機は大学3年生のときの授業だった。ビジネスを通して地域の問題を解決するコミュニティビジネスというものがあることを知り、大きな興味を持ったのだ。それをきっかけに山根さんは大阪にある起業支援施設に就職、コミュニティビジネスを立ち上げたいという若者を支援するようになる。

 そんなとき、島根の旅館が後継者を探していることを知った。過疎と高齢化に悩む地方でこそ、大阪での経験を生かしてみたい。山根さんはチャンスだと思った。

こうして旅館の女将となった山根さん、客に満足のいくサービスを提供するだけでなく、もう一つの活動を行っていくことにした。それは旅館の若者たちとともに地域の活性化につながる新しいビジネスを起こすことだ。実は旅館はそのために格好の場所だった。若者たちは住み込みで働くので、一人一人の性格や得意分野がよくわかる。アイデアをビジネスにするためのアドバイスをより的確に、かつ素早く行うことができる。

 夜10時、1日の仕事を終えた山根さんは若者を集めてミーティングを開く。若者には旅館の客や地域の人たちとできるだけ会話をし、その中からビジネスの種を見つけ出すようなケア、そして思いついたビジネスプランをここで発表し、意見を交わす。この旅館は若者たちのアイデアをはぐくむ場という新たな役割を担い始めている。

 旅館の仕事の枠を超え、山根さんの旅館で働きながら新しい取り組みに挑戦している若者がいる。永吉さん、大学2年生。1年生の間はやりたいことが見つからないまま漫然と学生生活を送っていた。そして1年の終わりの3月、この旅館で働き始めた。そんな永吉さんが、今地域が抱える問題に手探りで向き合おうとしている。この地域の山林では竹が異常繁殖し、民家や畑にまで被害を及ぼしていた。ところが、住民はお年寄りが多く、増え過ぎた竹の伐採には手が回らない。そこで永吉さんはボランティアで竹を伐採する取り組みを始めた。実は永吉さんには竹を生かして新たなビジネスにつなげようというもくろみがある。伐採した竹から器や照明器具などの製品をつくり、販売しようというものだ。永吉さんは竹細工職人に教わりながら、デザインや加工方法を研究している。地域の自然を守るとともに、地域で利益を生み、雇用を生む。そんな新しい仕組みを夢見ている。

 山根さんは、最後にこう語る。「若い人のマンパワーを地域に還元していくことが、私たちが島根県で活動している意味だろうと思っているので、旅館の利益になるマンパワーだけではなく、地域のためになるマンパワーにもなってほしい。どんどん地域の中に入って、経験してもらいたい。」

一握りのダイヤ

 こんな子が先ほどの「学生耕作隊」の近藤紀子さん以外にもいまして、今山根さんのもとに、若者が年間100人くらいやって来ます。定着している子は本当に一握りです。私たちが大学で教えて、ああいう形で巣立っていく子もほんの一握り、ダイヤの原石くらいです。どれくらいの割合かというと、ちょっとやそっとでは育たないというのも十分わかった上ですけれども、2,000人くらい教えている中で、5人くらい。育てば彼女みたいな子が実際に動いてくれます。木更津の筒井君だったり、近藤紀子さんだったり、何人かキーになる子がいます。そういう子たちがまた学生を引っ張り上げてくれ、そのときに困ったことを私たちに相談するというような仕組みを持っています。現場で任せるのは、地域にいるリーダーの子というのが現状です。

自信が財産

私たちがいつも学生に伝えているのは「100点を取らなくてもいいよ」ということです。とにかく完璧にやらなければと考えがちだし、逆にそれを大人が求めがち。若い子だからもっとちゃんとやれとか、社会に合うようにやれと言うのですが、意外と許容範囲は広いと私は思っています。若いから許されるという部分もあるので、それをはき違えるのはよくないですが、一つひとつやりながら覚えていくことが大切ではないかと思う。私は「合格点が60点だったら、ぎりぎり61点で滑り込め」と言っています。それくらいで乗り越えたら、多分彼らにとって自信のほうが財産になるのではないか、挫折させるよりも、よほど糧になるのではないかと思います。

実際にやってみてわかること

 では、私たちがどういうところで応援しているかというと、一つは、さっき永吉君がこれから竹の器をつくっていくという話がありましたけれども、つくってもそれを実際に売る場所がないのです。なので、実際に東京の関連会社で大田市場に花奔を卸している会社があるので、そこへ昨年限定で500個売ってみたのです。そうしたら、あそこの竹は小さいのから大きいのから太いのまで、規格はばらばらでしたが、中国産の統一した大きい規格のよりも、逆にそれが受けたということがわかりました。というのも、よくお正月にお花を飾ったりするのに使いますが、大きいとたくさんの花を入れるのでお金がかかる。だから、小さいほうが実は便利だと花屋の方から言われて、そういうニーズがあるというのも実際やってみてわかりました。

 なので、私たち大人ができることは、流通につなげることであったり、あるいは彼女たちをどういうふうに見せたらいい形になるかという訓練であったりとか。実は、毎日新聞の朝刊の1面に、山根さんが載りました。何かというと、彼女らの仲間はずっとあの竹を使って竹炭を作っているのですが、福田首相やブッシュ大統領の似顔絵をつけて、日本の伝統技術を彼らに贈ろうというプロジェクトを面白半分でやっています。そういうプロジェクトで実際、載せてもらい、例えば自分たちのやっている活動が社会につながっているというのがわかることが、彼らにとっては一番の喜びであり、おもしろさなのではないかと思います。私もマスコミの取材を受けるときには、なるべく興味をそそるような話をしますし、おもしろい素材があれば、女性起業家の人たちに紹介するなど、支えている側としてやっています。

しがらみにとらわれない、若い感性を活かす

 あの旅館は、開業したときと比べてお客さんの質が変わりました。今までは温泉津に来る、温泉に癒されに来るという一般的なお客様が非常に多かったのですが、最近ではテレビで宮崎美子さんや柳沢慎吾さんが取材して紹介してくださるようになって、あそこの女将に会いたいとか、あそこで頑張っている学生たちは何であんなに頑張れるのか知りたくてやって来る人たちが増えました。JAの方や地域の若者が定着しないで困っている漁協の方など、ぜひ山根さんの講演を聞かせてほしいということで最近では講演つきプランというのをやるようになりました。旅館のサービスは料理がおいしいというのも大事だけれども、それ以上に彼女たちに地域活性の鍵は何なのかヒントを求めるために、魅力を探しに、たかが島根県の古い一旅館ですけれども、やって来ます。

常識にとらわれない発想

 今や吉田屋は、ほとんど満室になるようになって売り上げが上がってきたということで、彼女は、金、土、日しかやらないという経営方針に変えたのです。それはなぜかというと、小さなところですと月曜日から木曜日はどれくらい人が来るのか、予測がつかないのです。なので、週休4日で、その日には竹の活動をやったり、あるいは畑を手入れしに行ったり、半宿半農とか半宿半工芸というような形で、いろいろ楽しめる方向に転換してやり始めました。

 実際、今、吉田屋の食事の中の地産地消率は65%です。米と魚ができるようになると100%になると思いますが、野菜はすべて自分たち、あるいは近所のおばあちゃんたちが一緒につくったものを取り入れているので、おもしろいということで結構お客様が遊びに来てくださります。そう考えると、旅館というと常時間あけてなくてはいけないというのが常識ですけれども、常識にとらわれない彼女たちのやり方に合わせてみるというのも非常におもしろいことがいろいろ生まれると思います。

チャンスに変える

 私も、余りにも飛ばし過ぎてやり過ぎるとつぶれるのではないかということを心配して歯止めをかけたりすることもあるのですが、基本は何でもやるという体制です。例えば、皆さんも補助金や予算を取ることがあると思いますが、人手がないから予算を取っても無理だと思っても、取れるかどうかわからないから、とにかく取るということが私の仕事なのです。とりあえず提案書は出す。そうすると、大概落ちるものですから、落ちたときは仕方がない。取れたら、若い人たちにどうやって責任を持たせてやってもらおうかと必死になって考えますから、逆に彼らにものすごく力がつくのです。なので、初めから大人がノーというのではなくて、なるべくチャンスを広げてあげるということを私はやるべきだなと最近感じています。

経験を糧に世界で活躍

 「来るもの拒まず、去るもの追わず」。去っていく人たちも多いです。けれども、だからだめだということではなくて、そこでの経験を生かして今世界で活躍している子たちがたくさんいるので、そういう意味ではうちは若い人を育てる教育機関だなと思います。卒業した後もやりとりしている子もいますし、また、社員になって戻ってきた子もいます。そういうことで後腐れなく、笑顔で見送るということもやっています。

評価をきちんとする

 ただのバイトでやりたいという子は普通のバイトに行けばいいのであって、うちに来るということは、やはり成長したい、何かをつかみたいと思っている子たちが多いので、評価会議というのを毎月やっていますが、なるべく私たちもその会議に付き合います。自分ができたこと、反省していることなどをまず学生たちにあげてもらって、それに対してどう思うかというアドバイスをする。ほめるところはちゃんとほめるし、直すところは包み隠さずストレートに言うことで、きちんと評価してもらえることが彼らにとってすごくうれしいみたいです。だから、そういう子とは遠慮しがちで距離をとるのではなくて、私はズバッと入り込む形でのつき合いをなるべく心がけていますし、大人の目線ではなくて、一緒に考える目線というのをなるべく心がけております。

常識を外れたところにヒントが…

 「常識だけ押し付けない」。常識を外れたところにいろいろなヒントがあるということを学生から教わることがたくさんあります。お世話になったらお礼を書けとか、そういうのは言いますが、そういうこと以外は、私は余り言わないようにして、なるべく彼らがやりたいようにやるのを見守る立場でいたいなと思っています。

成果給

 それから、何をするにもお金がかかるので、もちろん彼らもボランティアではなくて、一応仕事給ということで、できたら幾らという成果給でお給料をあげているのです。なので、私たちが自分の仕事で余剰をつくって、彼らに先行投資できるお金を蓄えておかないとできないです。特にこれから夏休み、いろいろなところに青春18切符とかで取材に行ってもらったりするので、余剰をつくることも私たち大人の役目なのかなと思っております。

 早足で、いろいろなお話をしましたけれども、何か一、二個でもヒントがあればうれしいなと思います。

群馬ふるさとづくり賞

 群馬ふるさとづくり賞は、活力ある地域づくりに取り組んでいる優れた団体を顕彰するものです。当協議会では、平成16年度からこの顕彰事業を実施し、5回目となった今回は、応募総数5団体でしたが、審査会では審査員を悩ませるほど、どの団体も魅力的ですばらしい活動をされておりました。

 今年度の群馬ふるさとづくり賞には、「特定非営利活動法人時をつむぐ会」が、群馬ふるさとづくり奨励賞には、「粕川フラワーロードの会」「中之条観光ガイドボランティアセンター」の2団体が受賞となりました。ここでは、受賞団体の喜びの声と活動内容をご紹介いたします。

群馬ふるさとづくり賞を受賞して 特定非営利活動法人時をつむぐ会 代表 続木美和子

 高崎シティギャラリーで毎年「絵本原画展」を開催している「時をつむぐ会」です。

 高崎市(事務局)を中心に、子どもたちに絵本の楽しさを伝えるための活動をしています。「絵本は子どもが出会う最初の文学であり芸術です」を合言葉に15年。この節目の年に、「群馬ふるさとづくり賞」をいただき、嬉しい気持ちで一杯です。

 全国に広がる230名の会員。県内各地から集まる運営スタッフ。原画展のため応援に駆けつけてくれるボランティア(会期中のべ350名)。現場の声を届けてくれる保育士さん・司書さん・読み聞かせグループ。知恵をくださる出版関係者など。多くの方々に感謝するとともに、受賞を伝え、喜び合いたいと思います。

15年の間に、子どもをとりまく環境は大きく変わりました。その変化に対応が必要な部分と、変わらず大事に伝え続けなければならない部分があることを強く感じています。

毎日の暮らしの中こそが基本。衣食住の大切さ、生きていることの喜び・楽しさに絵本は気づかせてくれます。自分の中にある整理できない感情が文字になり、心を支えてくれる生きた言葉が児童文学の世界にはあります。

これからも、絵本原画展・子育て支援活動・児童文学講座・保育士のための絵本講座・講師派遣・通信の発行等を通じ、ともに豊かな感性を育んでいけるような発信をしていきたいと思います。

多くの方々の思いと貴重な時間をつむいできた「つながる」力が、時をつむぐ会の元気の源です。この力で、ふるさとに新しい文化の風を起こしていけるよう願いながら、活動を続けていきたいです。

活動内容

 「絵本は、こどもが出会う最初の文学であり、芸術です。」を合言葉に、絵本・児童文学を通して「子どもの健やかな成長」と「地域文化の向上・発展」をめざし、様々な活動をしています。

 毎年一回絵本の原画展を開催することで、たくさんの方々に、絵本の素晴らしさを知っていただくとともに、本物の絵との出会いを通じて、子どもたちの豊かな感性を育み、自分たちのふるさとに新しい文化の風を起こしたいと考え活動してきました。そして子どもも、大人も、男性か女性かにかかわらず各個人が尊敬される、真に豊かな社会の実現に貢献していきたいと考えます。

 また、時をつむぐ会のもう一つの大きな活動の柱である、乳幼児とその母親を対象とした子育て支援の「ぴよぴよの会」を運営しています。家庭での子育てが楽しくなるよう1995年に発足させました。最初はたった2人で始めた活動も現在は10人のスタッフで運営しています。自主事業の他に公民館等の委託事業も行なっています。

 ほかにも、絵本・児童文学の勉強会を定期的(月一回)に実施、その他、会報「そよかぜ」を発行しています。また、児童文学講座「この本おもしろいよ!」年間テーマを決め、児童文学の面白さを学び、伝え合う活動を行なっています。約20年間継続して実施しています。

 そのほか、保育士のための絵本講座、「学校図書館司書さんのための講座」、「紙芝居の意義、演じ方等を考える講座」等を実施してきました。また、各種講演会の開催、絵本・児童文学・子育て等に関する講座への講師の派遣、および原画展のコーディネイトなども行っています。

群馬ふるさとづくり奨励賞受賞 喜びの声 粕川フラワーロードの会 代表 高橋美律子

 粕川フラワーロードの会を組織として立ち上げて7年、私どもは一貫して「花の植栽活動」を基本活動とし、その時々の話題や地域の課題を織り込み、会員が飽きることなく継続できるよう魅力的な実践活動を行ってきました。行政支援のない市民団体の最大の課題は、安定した活動体制づくりでした。事務局を兼ねる私の役目は、ネットワークの構築と書類づくり。毎年民間企業や地方公共団体の活動助成事業に手をあげ、採択不採択をくぐりぬけながら、少なからず活動資金が確保できるのは、暑い中も寒い中も笑い声の絶えない、中身の濃い地味な活動をする仲間がいるからです。

 そのありのままの7年間を書き綴った4,000文字の応募原稿に、今回始めて「ふるさと」という文字を使いました。伊勢崎市から転出したことのない私にとって、はずかしながらこの地をふるさとと認識できた受賞でした。そしてこの受賞は、粕川フラワーロードの会に関わりをもつすべての方のお陰と感謝しています。ゴミの不法投棄をなくすために花を植えはじめたこの会は、「みんなで美しいって思える感動を共有したいね」という願いから始まり、時にある悲しみや悔しさの感動も、感謝の心で喜びに変えていこうというパワーを秘めています。クールな情熱と小さな使命感ですが、心からありがとうございました。

活動内容

 ゴミの不法投棄防止、通学路の安全、道行く人の心のやすらぎ、そして粕川流域の人の心と心を花でつなぎたいと夢見て、粕川の土手に花を植える環境美化活動を行っています。

 ゴミの大量不法投棄の名所だった伊勢崎市日乃出町の粕川右岸、県道2号線殖蓮橋から小斉橋下流の伊勢崎ガス東まで約1キロメートルには、夏は真っ赤なサルビア、冬にはパンジーが約7000株植えられ、「サルビアの道」と呼んでいます。早春から河津桜や菜の花やスイセンなどが咲きだし、美しい景観をかもし出しています。サルビアの道から下植木花の里までの約2キロメートルにわたる活動場所は、折しも平成20年開催の第25回全国都市緑化ぐんまフェアのサテライト会場に認定され、「粕川流域花の道」には多くの来場者が、手づくりのありのままの活動場所を見学に訪れています。

 現在の会員数は63名で中高年の主婦や定年退職者が多く、賛助会員と実践活動をする会員に分けられます。会員の中には土建屋・造園屋・農家・材木屋・環境カウンセラー・趣味の園芸家がおり、それぞれが得意技を発揮しています。なにより花が好きで、草むしりの達人と自称するたくましい女性たちが中心になっています。そんなボランタリーで結ばれた仲間とのおしゃべりは有意義で、花や土に触れることで心と身体が癒されています。

 粕川流域以外にも、様々な花と緑のまちづくりに、会としても個人的にも積極的に関わっています。平成17年に緑化フェア啓発イベントとして、いせさき七夕まつりに合わせガーデニングコンテストを伊勢崎市ではじめて開催、コンテナガーデンとハンギングバスケットが多く出展されました。ぐんま花みどり交流ネットワーク伊勢崎ブロックが主管したこともあり、群馬県から大勢の緑化フェア関係者がスタッフで入りました。

 ほかにも、園芸福祉の全国大会の誘致を目的に園芸福祉のまちづくり講演会を開催したり、高齢者や障害者を対象とした園芸教室をシリーズで開催したり、老人ホームに勢多農生と共同で、バイオのサクラソウを植栽する癒しのガーデンを造成してきました。

 また、園芸薬剤あれこれ講座、菜の花プロジェクト、リユース食器フォーラムなど環境に関わる講座の開催や実践活動を通し、環境問題の提言活動と啓発活動を行ってきました。

 私達は多くの市民団体との交流を深めるなか、地域づくりのキーワードはやはり「人と人とのこころのつながり」と思っています。

群馬ふるさとづくり奨励賞を受賞して 中之条観光ガイドボランティアセンター 代表 湯浅昌雄

 私たちの目的は、来町した観光客の「旅の思い出づくり」のお手伝いと、温泉地に来た方々にすぐに帰らないで町の散策等で少しでも滞在時間を延ばし、まちを知っていただくことです。

 はからずも、この度、平成20年度「群馬ふるさとづくり奨励賞」を受賞。活動5年での受賞に感謝とともに、今後の励みとなり、ますますガイドの活動に力が入ります。

 当ボランティアセンターは、発足当時、中之条行政事務所に補助金の件で相談に行き、当時、地域創造課で実施していた「はじめの一歩」という事業を紹介され申請しました。今から思えば、地域創造課にプレゼンテーションに行き、補助金をいただいた関係で地域づくり協議会に加盟できたことが幸いでした。

 群馬県には、今、約30団体のガイド団体があります。設立当初は、どこのガイド団体も参考にすることなく、無謀にも毎日の活動を目的に本日までまいりました。ただ、毎日の奉仕活動に、他の方々には理解いただけない面もありますが、今日まで続けております。何の問題もないというわけでもなく、いろいろな問題点もありましたが、毎日のことで前に進むしかないのです。

 JR中之条駅歴代の駅長のご理解とご協力で駅構内での活動ができたことが今に生きています。この間、ホームのバリアフリーや障害者用トイレを設置、駅舎の改装、今年度中の完成予定の駅乗降客のためのエレベーターの設置等に我々の活動が手助けできたと評価されています。

 数字がすべてではありませんが、5年間のトータルは、実働日数 1,800日、実働時間数 9,000時間、延べ人数 4,500人、ご案内数 1,300組、5,500人、待合室での道案内等 70,000人、パンフレットの配布 100,000冊、感謝の手紙 120通、14回開催駅前ギャラリー見物客 20万人、宿泊紹介 450件など。今後も毎日にこだわり一層頑張ります。

中之条観光ガイドボランティアセンターの活動内容

 中之条町に来町される観光客の皆さんに当町の名所、旧跡等の文化財の紹介、並びに温かな町のこころをお伝えすることを目差して、ボランティア、ガイドの養成にあたり、講座の開講、研修ガイドの認定、登録調整業務、利用者の斡旋等の活動を行っています。

 第一期から昨年度まで第十期のガイド養成講座を開講し、約70名のガイドを養成。現在の登録数は41名です。

 センターは、午前10時から午後3時(お客様の都合で延長もOK)まで開館。ガイドは、登録日に10時までにセンターに寄り、パンフレット等を用意。終了後、当日の出来事等を記載します。また、センターに在駐のガイドは、ガイドの予約・宿の斡旋、電話による各種相談を受け付けます。

 これまでに、中之条駅の協力で平成15年9月にガイドの顔写真入りボードを作っていただいたり、平成16年3月から、待合室に長テーブルのコーナーを設置していただいたり、平成20年3月、駅改装に伴い、全国的にも極めて珍しいボランティアのカウンターブースを設置していただきました。

【地域づくりの現場から】 高崎地区 地域安全センターについて

 今回、高崎イオンショッピングセンター内の一画にある「地域安全センター」を取材させてもらった。ここの所長である志村神麿さんと事務局長の本田昌子さんにお話を伺いながら、ショッピングセンターの災害時に備えた場所等に案内していただいた。

 この取材には、インターンシップで来ていた大学生の角田岳郎さんにも同行してもらった。

地域安全センターとは?

 地域安全センターとは、イオン高崎ショッピングセンター内に設置された、地元のボランティア団体によるイオン内とその周辺地域の防犯パトロールの拠点となっている場所のことである。企業は社会貢献の一環として、イオン内の一画をボランティア団体に無償で貸し出している。さらに地域安全センターは、その設置に高崎警察署も関わっており、安全安心ステーションモデル地域に認定されている。このように地元ボランティア団体と企業、さらに警察との協働によって設置された防犯施設は全国でも珍しい。

普段はセンターを事務所として、イオン内の定期的な見回りとパトロールカーによる周辺地域のパトロールを行って地域を守っているが、災害発生時にはボランティアの構成員がすぐに集まって現地に向かうための集合場所にも、会議を開く場所にもなる。

地域安全センターの設立者であり所長でもある志村神麿さんについて

 志村さんは群馬県地域づくり協議会を構成する団体の一つである、群馬災害救援ボランティアの代表者として活動していて、地域安全センターの設立者でもある。志村さんは1985年の御巣鷹山の日航機墜落事故の際に陸上自衛隊の隊員として捜索救出活動に携わった。このとき、いくら人がいても足りないという状況下の中で休日も返上して活動した経験が志村さんのボランティア活動の原点になっている。その後、有志で災害支援に赴いたとき組織の必要性を感じ、1993年に群馬災害救援ボランティアは発足したが、当時は生業に追われ活動はできていなかった。しかし95年に阪神淡路大震災が発生した際、日航機事故の現場に携わった志村さんには、被災地の状況が捨てておけなくなり、このときから群馬災害救援ボランティアの活動は本格的に始まった。その後も全国各地の災害地へ駆けつけて活動してきた。また現在では大学や各地域などに赴いて災害ボランティア活動の説明や災害時の対応などについて講義を行ったりもしている。地域安全センターは、この群馬災害救援ボランティアが主体となって運営されている。

イオンに来たお客さんは地域安全センターをどのように利用しているのか

 店内での困ったことについての相談や、イオン内の店舗案内など、気軽に立ち寄れる場所として利用している。また地域安全センターは警察官の立ち寄り所となっている。

地域安全センターの運営時間、曜日、その体制

 地域安全センターは基本的に年中無休で運営しており、運営時間は朝10時から夜11時までである。しかし、その運営時間に決まりは設けておらず、運営体制もシフト制などではなく、そのとき来られる人が来てパトロールをするという形式をとっている。災害など有事の際には、志村さんの一声でボランティアの構成員が集まるため、すぐに現地へ向かうことができるようになっている。

代表者である志村さんが基本的に毎日、センターに顔を出して活動しているため、他の方たちも任せっきりでは良くないということで、交替で出てきて上手く成り立っているという。事務局長もお勤めをしながら、運営に携わっている。

イオン内に設置した理由

 志村さんが防災対策の拠点として地域安全センターを設立しようと考えた際、その場所としてイオンに目を付けた大きな理由には、災害が起きたときに対処しやすい設備が整っていたことにある。イオンはその地下に大型の貯水槽を備えており、屋上に降った雨水を地下のタンクに貯め、それを浄水して使うことのできる設備を持っているため、災害時も水が止まることはない。また太陽光発電と風力発電設備を備え、電気を蓄電しておくことができ、停電時には自動的に電源が切り替わるという設備も整っているため、電気も止まることはない。

 この点に着目した志村さんは企業側に働きかけ、自らも本社に赴くなどしてねばり強く交渉した結果、企業側にその社会貢献性を認められ、イオンの中に地域安全センターは設置されることとなった。

 さらに高崎市とイオンとの間で災害協定を結ぶことにも尽力し、周辺地域での災害時にはイオンを付近住民の避難場所として利用できるようにした。さらにその後も交渉を重ね、イオンの入り口脇のスペースを災害時の受付とするために常時確保しておくこと、屋上にヘリポートを設置すること、緊急車両用の駐車場を確保することなどに成功した。

センターが設置されたことによる周囲の変化

 地域安全センターが設置され、志村さんらボランティアの方たちの積極的な防犯活動によって、イオン内の万引きの発生率は、センター設置以前と比べて85%減、さらに周辺地域の空き巣発生件数はセンター設置後、0件になった。このような貢献が高く評価され、高崎警察署から二度にわたって表彰されている。

 また、企業が社会貢献の一環として地元のボランティア団体にスペースを無償で貸し出して設置されたこと、さらには高崎市と企業の間で災害協定を結ぶことで災害に備えていることなど、全国でも新しいその取り組みは評価が高く、新聞などにも取り上げられ、あとに続く形で太田や前橋の大型ショッピングモールにも設置され、今後伊勢崎に新しく出来るショッピングモールの中にも設置されることが決まった。さらに東京や埼玉にも広がりを見せており、まさに全国に先駆けたものになった。

 しかしその主体はあくまでボランティアであるため、その運営体制を維持し続けることは容易ではなく、前橋のけやきウォーク内に設置された地域安全センターは一年を待たずして無くなってしまった。設置した後、それを維持していくことが課題となっている。

【取材に同行してみての感想】角田岳郎

 今回、取材に同行させていただくまで地域安全センターというものの存在を知らなかったので、この取材を通して、その活動内容やセンター設置に至るまでのいきさつを、志村さんの飾らない言葉で直接聞くことができたことはとても勉強になった。

 緊急時に備えられたイオンの設備に目をつけたその機転と、センター設立に当たって企業と警察を動かしたその行動力、さらには市と企業との間で災害協定を結ばせるに至ったその地域づくりに対する熱意は本当にすごいものがあるなと思った。

 また災害時は真剣に、時には命がけで活動することがありながらも、みんな活動を楽しんでいるというお話を聞いて、僕が災害救援ボランティアと聞いてイメージしていたものとは異なり、とても興味深かった。

 志村さんの災害救援ボランティア団体の基本理念とされている「この指止まれ。嫌なら止まるな。」という言葉と、志村さんの飾らない人柄がとても印象的だった。災害救援ボランティアに人が集まってくるのも、地域安全センターの運営体制に規則を設けずとも自然に人が集まってきて運営できているのも、全ては志村さんの、人を惹きつける魅力によるものだろうと思った。

 地域づくりには、その革新的なアイディアだけでなく、周囲を動かす行動力と強い意志が必要になることをこの取材を通して知ることができた。