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ひゅうまにあ通信42号

更新日:2011年3月1日 印刷ページ表示

表紙

 平成21年度「地域づくり講演会」講演録
 講師:(株)他郷阿部家代表 松場登美さん
 演題:足元の宝を見つめて暮らしをデザインする

 平成21年度群馬ふるさとづくり賞~喜びの声~

 地域づくり人物リレー 第3回

  •  榛名まちづくりネット 芹澤 優さん

平成21年度「地域づくり講演会」講演録

演題「足元の宝を見つめて暮らしをデザインする」

講師 株式会社 他郷阿部家 代表取締役 松場登美さん

講師の松場登美さん

成功事例ではない

 ご紹介いただきました松場でございます。よろしくお願いいたします。

 まずお断りしなければいけないのは、決して地域活性の成功事例ではないということです。むしろ、成功というよりは、苦労の中ですけれども、私は継続が力だと思っていますので、とにかく成功よりも継続。だから、会社でも売上目標よりも、継続目標を立てようと言っています。そして、10年一昔といいますけれども、何をするにも10年かかるということで、10年単位で今までしてきたことをお話しさせていただきたいと思います。そして、研究者のような理論は語れませんが、過去においての経験と未来においての自分の理想と夢みたいなことをお話しさせていただきたいと思います。

本当の豊かさとは

 最近、おもしろい言葉を聞きました。ホタルとかアカトンボ、私の家の裏にも、今年は殊のほかホタルが多かった。田舎の原風景を見るような、でも、実はあれは自然ではなくて、稲作昆虫と呼ばれて、稲作の結果としてあの昆虫が発生するそうなのです。だから、私のビジネスも、ホタルやトンボと一緒で、結果として自分の人生、そしてビジネスの中の副産物的なことが地域活性のお役に立っているということであればとても光栄です。

 そして、この不景気でいろいろな経済指標の上では随分厳しいことがテレビでも日々聞かされますけれども、本当の豊かさって何だろう、経済的な豊かさがイコール人間の幸せではないということを、そろそろ皆さん気付かれているはずです。私は、経済的に今とっても厳しい中にあります。今年8月には著書が2冊出ます。1冊は、森まゆみさんが書いてくださった対談式ですが、「今一番欲しいものは何ですか」と聞かれたとき、即座に「お金」って答えました。気持ちの中では恥ずかしいけれども、できるだけ借金を少なくしておきたい、次の世代に余り大きな借金を残したくないと思っているわけです。しかし、実は数年前までは借金はなくさなければいけないと自分で大変プレッシャーに思っていたのです。ところが、私どもの社には卸部門がありまして、いろいろなお得意様とお付き合いしている中で、お父様が、またおじい様が大変な借金を残されたところほど、若手は頑張っていらっしゃるのです。そういうことを考えると、借金を残すのは決して悪いことではないと内心思うようになりました。

授かり

 今日のパワーポイントのタイトルを「土地からの授かり物」にしました。私の母は無学な人でしたけれども、とても信仰心の強い人で、いつも口癖で私に言ったことが「授かりだから」ということでした。「もし、いいことがあれば、それはあなたの力ではなくて天から授かったのだから感謝しなさい。もし、悪いことがあったとしても、それはあなたが乗り越えられるから授かったと努力しなさい」と励ましてくれました。それ以来、私はこの「授かり」という言葉が大好きです。

 そして、授かりというのは、ただ天から授かったそのものを今あるがままでよしとするのではなくて、人間に授かったものは無限大に可能性があるということです。この間も医学博士が、人間はほんの数%の才能というか、自分の持つものを生かしていくしかない、亡くなるまでの一生の間にまだそれ以上にすごい才能があると言っておられました。最近、盲目のピアニストが話題になっておりますけれども、彼にしても才能が噴き出してきたような力がありますよね。私たちの中にも、恐らく何かそういうものがあると思うのです。

 私は、こんなにベラベラしゃべっていて、その後でこんなことを言うと皆さんにいつも笑われますけれども、私はとても無口でした。人前で話せない子で、小学校ではいつも泣かされて帰って、母親にたまには人を泣かして帰ってこいと言われるぐらいでした。いつの間にか、マイクを持って人様の前で話をするなんて、天国の母が見たら、卒倒するぐらい驚くと思いますが、人生は何が起こるかわからない。

人間的なまち

 私が住む石見銀山は、今でこそ世界遺産として話題に上るようになりましたけれども、私が行った当時、親兄弟から「あんたはわがままで親不孝の限りを尽したから罰が当たって、石見銀山に国流しになった」と言われたぐらいです。でも、当時から私は石見銀山が好きでした。確かに、高齢化、過疎化の最たるところで、人口500人のまちで、その山の谷合いの小さな集落でしたけれども、そこに行ったときから私はすてきなまちだと思いました。

 何がすてきだと感じたのかというと、それはヒューマンスケール、人間的だったのです。古い街並みは、車社会でできたものではないので、道幅も狭いです。すれ違えば必ずあいさつもします。そして、今観光客の方が我が家にお泊りになると、必ずびっくりされるのは、朝起きて散歩をすると近所の方、子供たちみんなからあいさつされます。私たちのまちでは当たり前の、そういう人間的なスケールが私はあのまちの本当の魅力だったのではないかなと思います。

ものさし

 今日は、地域住民としての生き方、企業としての生き方、個人としての生き方と3つに分けてお話をしたいと思います。価値のものさし、美のものさし、幸せのものさしを挙げました。ものさしは、物をはかるものですけれども、私にとって石見銀山に嫁ぐまでは、美しさであったり、幸せであったりというものさしが全く違うところにあったのです。でも、石見銀山に約30年近く住んで、これまでのものさしは何て狂っていたのだろう、そして、世の中のものさしって本当に正しいのだろうか、このものさしで本当にものごとをはかっていいのだろうかと疑問に思うようになりました。

社屋を建てるのに

 我が社の社屋の入口ですが、社屋をつくるときに悩みました。この日本の原風景を思わせるようなところに便利性、効率性優先の建物を建てていいのだろうかと思いました。そして、私たちは何と6年という構想の後につくったのが本社でした。私たちは毎朝、あぜ道を渡って出社します。

 まず、最初につくったのは、社屋ではなくてあぜ道でした。そして、鉄板1枚の橋を取って、丸太の橋をつくりました。それから、コンクリートのU字溝を掘り起こして石積みの小川をつくりました。その後、社屋と呼ばれる建物をつくりました。社屋の屋根がわらには、およそ4,000枚近いかわらが使ってあります。石州というのは石州がわらの産地でもあります。今はどんどん技術が進歩して大きな会社があります。

 弊社では、登り窯で焼いたかわらの、最後のかわらを買わせていただきました。昔のかわらですからちょっといびつで、今のようにそのままふくことはできません。その分、土を上げて泥の上にかわらをふくという昔ながらの工法なわけです。それは昔の人の知恵で断熱効果もあり、暑い日差しからも守ってくれます。

 そして、私たちが望んだことは、便利性、効率性優先の社屋ではなくて、この原風景と言われる風景を壊さないで、しかも中では機能を持ちつつ、元気に若いスタッフが働く会社をつくりたいと思ったわけです。足元には石見銀山生活文化研究所事務所入り口という看板がありますけれども、私たちは本店を含め、この町内には大きな看板を一切つくりませんでした。なぜかというと、この街並みの中に商売優先の看板をつくっていいのだろうかと考えたからです。それでも来られた方々が迷わないためには、足元に小さな、でも要はなしているというような看板をつくりました。

自然とともに生活する

 社屋の隣の鄙屋は、ひなびた田舎のひな、3月に移築した雛の月のひなも含めて鄙屋と名付けました。ここは社員食堂で、みんなが食事をするところです。時々私は原稿を書く仕事があるので、そのときはここにこもって書きます。この中で書くと、すぐ自分になれるというか、すごく気持ちがよくなるのです。かやぶきの家の中は、250年たっても、なお光輝く床など品格があります。近代建築にはないものです。近代建築のような快適さはないけれども、逆に快適さを求める余りなくしてきた大事なものがここには残っているような気がします。

 そして、社員食堂では春の穏やかな日は縁側で足を伸べて、寒いときにはいろりに火を焚き、夏の暑いときには奥の座敷の風通しのいいところに、というように気候の変化に応じてこの家を使うというような食事のスタイルができています。大きな企業に行くと福利厚生もしっかりしていて、社員食堂が立派なところもありますけれども、気候に関係なく暑いときにはクーラーがきき、寒いときには暖房がきく。私は自然と常に向き合うことがすばらしいと思うので、我が社の社員食堂にはそういう設備はありません。

芋代官を語り継ぐ

 我が社は、卸部門もありまして、全国にお得意様があります。お得意様への、我が社のお歳暮は、毎年サツマイモです。クラフト紙にもみ殻を入れて、お芋の生産者から直接買ったお芋を、そこに詰めてお贈りします。なぜかといいますと、地元でも有名な話ですけれども、江戸時代に天保の飢饉がありました。その飢饉の時代に江戸から赴任してきた代官様、井戸平左衛門さんとおっしゃるのですが、年は60歳で体力も余りない方だったので、大変なときなのに当てにならない代官が来たなと皆さん思っていらしたでしょうけれども、実はこの代官様は大変人柄がよく、また力がある方で、民の飢えを何とか救いたいということで、幕府の米蔵を勝手に開けてみんなに分け与えたり、また年貢を勝手に免除したりした。それでも飢え死にが出る。そんな時、父親の命日にお寺にお経をあげにいきましたら、そこで薩摩の国のお坊さんと出会うのです。そして、薩摩の国にはやせた土地でも栄養豊かな芋ができると、それがサツマイモだったのです。ただし当時、薩摩の国からサツマイモの種芋を持ち出すことはご法度だったのです。井戸平左衛門さんは、そういうご法度を変えた、これが本当の改革です。私はできたら今の国会議員さんに井戸平左衛門さんの祭られている井戸神社にぜひお参りしてもらいたいと思っております。そういうお話を広めたいと思い、弊社では全国のお得意様にはサツマイモのお歳暮をお贈りして、井戸平左衛門さんの物語を言い伝えています。そして、いつも芋にちなんで、私がメッセージを書き添えます。「煮ても焼いても食えるやつ」とか「芋姉ちゃんはどこへ」とか。今では田舎でも足はすらっとして、おしゃれな子が多くなって、昔のような芋姉ちゃんはいなくなりました。芋とか田舎というと、昔は必ずマイナスイメージの代名詞だったのです。でも、なんのそのということで私はずっとメッセージを書き続けています。また、その芋を石見銀山黄金芋という名前でお贈りしていましたが、ある友人が、あなたのメッセージが毎年楽しみだけれども、ジャガイモの男爵芋にちなんで、サツマイモは講釈芋にしたらどうかと言い、10年前から「石見銀山講釈芋」と名前を変えて全国のお客様にお贈りしています。

日本の文化の良いところ

 今日着ていますのも、全部我が社の製品です。私は基本的には国内の産地のもので、国内でしかつくらないのです。シャツは近江の麻、それからスカートが新潟の木綿です。こういうものをつくっていますので、アパレルと言われると私はアバレルだというのですが(笑)、アパレルに片足突っ込んでいるような業界ですので、アパレルと言えば海外まで行って写真を撮るというDMが多い中で、私たちの会社は石見銀山大森町で社員がモデルになってDMをつくりお送りしております。

 そして、「こんにちは、今日も暑そうね。この道中ならではの人の交わり、大切にしたい人間尺度、私のデザインはここから生まれる」と書きましたけれども、実は私はこのまちに嫁ぎまして三女を出産するまで、針も持ったことない、ミシンも踏んだことない、デザインの勉強もしたことない、洋裁もしたことない、そんな人間がどうして服をデザインして、今、東京にも、大阪にも、福岡にも、都心と言われるところに店を持ち、営業できるようになったかというと、これはきっと天から授かった力だと思うのです。あなたはここで生きていくために、こういう力を授けるから、ここで暮らしなさいと授かった力だと思います。だから、流行は関係ないです。

 そして、今、衣料は海外の素材で海外で縫製すると、国内のものの5分の1ぐらいの価格でできるのです。でも、それをしていいのかと私は思うわけです。あんなに大量に安くつくる必要があるのか。それがごみにされるときは、企業としてどう責任をとるのかということを考えると、もう大量に物は要らない。丁寧につくられたもので大事に使いたいと思うようになりました。

 私のものづくりのテーマは復古創新です。このテーマのもとに、昔ながらの素材を使い、私のデザインは着物が原点ですので、和服の着物の利点を生かしたデザインにしています。着物は世界ですばらしい衣類だと思います。日本の文化の一番すばらしいところは融通がきくことです。着物というのは、多少身長が伸びても、おはしょりで調節できますでしょう。そして、何よりもだれにでも合わせることができる。だから、おばあちゃんの着物をお母さんが着て、また娘が着る、孫が着るということもできるわけです。そういう融通性のきく部分を生かして、私の服にはサイズがないのです。あるときすごいことに気付きました。西洋の服は、体を矯正してバストを持ちあげて、肩にパッドを入れてウエストをコルセットで絞めて、体を矯正して着るけれども、日本の着物は体に合わせてくれるのです、全く逆ですね。日本の融通性の文化というのは、世界に誇る文化ではないかなと思っています。

古いものを大切に使うこと

 社屋の外は、先ほどの景観を壊さないあぜ道があり、山があり、建物があり、小川が流れて田んぼがあるという日本の原風景の中にありながら、中は機能的な職場につくり上げている。これはヨーロッパでは当たり前のことです。ところが、日本の企業はどうでしょう。私の実家は三重県で、亀山は皆さんご存じの家電の大企業がありますけれども、風景を破壊すような工場が立ち並びました。経済発展だけからいえば、企業誘致ということで地元が潤うかもしれないけれども、経済が変わり過去のものとなれば、1つの破壊にしかすぎない。何が大事なのかということをもう一度見直す時代にきていると思います。

 私が嫁いだ大森町には、警察署や裁判所になった建物がありましたが、あれほど立派な建物は無残に壊され、この地域らしいという理由でただかわらを使って、白壁を塗った自治会館につくりかえられてしまいました。あの品格ある建物がなくなり、なぜあれを守れなかったのだろうかといまだに残念に思います。その建物の状況だけを見ると、壊すしかないだろうと思われるかもしれませんけれども、実は私はこの20年の間に8件の民家を再生しました。その民家のほとんどは、これよりもひどい状態でした。でも、見事によみがえりました。今は簡単につぶして、簡単につくることのほうが経済的に楽だから、つい建て替えてしまうのです。

 私たちは、新しく家をつくるときには必ず古い材料を使うようにしています。ただで拾ってきたものですから、安上がりだと思うかもしれないけれども、実は高くつくのです。そういうもののストックのために、隣町にある農協の米蔵と、もう1つ廃校になった小学校を買い求めました。そこには近郊で壊された小学校だとか、また近くで新しい家を建てるために壊された古い民家などから出た材料(最後のごみとなったもの)を全部いただいてきて残しております。そういう再生した家で、私は今暮らしています。

 今日は行政の方もいらっしゃるので、耳の痛い話になるかもしれませんけれども、大森に入るトンネルがあります。そのトンネルの入口が、まるで漫画のような代官屋敷のデザインになっています。この数百メートル先には本物の昔の代官屋敷があるにもかかわらず、なぜこんなデザインが必要だったのか。私は、世界遺産になる前に、何とかこれを壊してほしいと言ったのですが、行政は一度つくったものを改めることはないのです。

 また、大森のまちには竹がいっぱいあります。というのは、銀を掘っていた時代に、その道具や工事のために竹が必要だったのです。竹は早く成長するということで、何十種類もの竹が大森のまちにはあるのです。でも、行政がつくったのはプラスチックの竹垣です。それから、ここには高砂神社という小さな神社があって、年に1回、男神様が女神様に会いに来るというすてきな物語がある神社にもかかわらず、つくったのは観光客用の公衆トイレです。神様の真下に、この感性たるものは、腹が立つとしか言いようがないです。

時代の価値観

 まず日本が誤った方向に行き始めたのは昭和30年代、要するに高度経済成長の時期ですね。そういう時期の価値観というのは、何か間違っていたように思います。夫と結婚してこの大森のまちに入ることになったとき、両親は長男が帰ってくる、古い家ではかわいそうだろうということで、外壁はモルタルで塗り、窓にはサッシを入れてくれました。

 私たちは、いろいろ親不孝を重ねました。両親は、天国で笑っているのか、また怒っているのかわかりませんけれども、モルタルをはがして土壁に直しました。それから、サッシを隠して障子と雨戸をつけました。また、丁寧にじゅうたんを敷いてくれた廊下はじゅうたんをはがして、もとのむくの板をあらわしました。そして、自販機は取り除きました。私たちの今の時代の価値観は、こういう景観こそがこのまちの宝だと思うようになったわけです。これは決して両親を責めるのではなくて、日本全体の価値観がそうだったわけです。しかし、私たちがやってきたことに、当時は奇人変人の扱いを受けました。それが、だんだんこういう価値観を認めてくださる方々が多くなりました。

まちの魅力とは?

 先ほど申し上げた群言堂本店がある場所は、街並み保存地区になりました。ただ、私たちは街並みを守ることはもちろん大事ですけれども、行政的な網をかけることで余りにも舞台の設営のようなまちになっても魅力がないのではないかと思うのです。もともとまちというのは、その時代にそこに住む人たちの個性、そこに住む人の趣味、いろいろな思いが1軒1軒あってこそ、まちの魅力というものだと思うのです。そして私たちが心がけたことは、本店は店といえども、一切店の前には商品を見せなかったのです。一歩入ってもまだ商品はありません。靴を脱いでいただいて、奥に入って初めて商品が見られる。なぜかといいますと、美しいこの緩やかなカーブを描いた街並み、この街並みの景観を壊さないように、一切商品は表から見えないようにしました。蛇行した川に沿ってできたのがこの集落。どんな都市計画の技術をもってもつくれない美しい景観ができているわけです。それがこのまちの宝だと思うからです。

都会が捨てたものを大事にする

 私たちが店をつくるときに、まずはお金がないことが第一の理由でしたけれども、一度につくりませんでした。だから、最初はカウンターのある一部屋だけでオープンしました。それ以外は全部廃墟で、異様な店だったわけです。宣伝もできないものですから、口コミでお客様が増えていき、翌年には一部屋直し、2年後には一部屋直し、とうとう全部直すまで18年かかりました。だから、お客様も来られるたびに、また今年はここが変わったねと楽しみにしていただいておりました。そして、私たちが心がけたことは、世の中が捨てたもの、時代が捨てたものを拾う。とかく地方というのは都会を見がちですけれども、都会が捨てたものこそ私たちは大事にしようということにしました。なぜならば、都会は便利性、効率性、経済優先の社会です。でも、田舎というのは、非効率なことに意味があるという部分がたくさんあります。そういうことを捨ててしまったら、私たち地方のよさは全くなくなってしまうわけです。そういう意味では、私たちは拾いものをしました。といいますのも、結婚した当時、夫が大学生でしたし、勘当されて貧乏のどん底でしたから、拾いもので生活していたのです。だから、家電品は買ったことがなかった。庭にあるまくら木、流木、電柱、全部捨てられたものです。これを拾ってきて草花テーブルをつくり、ここにコケを植えましたら、毎年いろいろな草花が生えてきました。タンポポが出たり、ネジバナが咲いたり。コンピューターは入れたものしか出てこない優秀なものかもしれないけれども、自然界というのは人間がはかれないものが出てくるのです。それだけ自然の力は無限ということです。

根の国 島根

 島根へ嫁いだとき、島根と書いて根の国、まさに根の国だなと思ったのです。というのは、縫製工場もある、食品加工所もある、いっぱいものづくりがあるにもかかわらず、商品が市場に出るときは島根という名前はどこにも出てこない。みんな東京なり、大阪、都会のブランド名しか出てこない。島根は芽も出さない、花も咲かない、実も収穫できない県だと思いました。ところが、30年近くたって、今思いますのは、これからは根のあるところこそ生きていける時代になったと思います。都会は華々しく見えるかもしれないけれども、切り花と一緒で枯れてしまったら終わり。でも、根さえしっかり持っていれば、いつか自分らしい芽を出し、また花を咲かせ、実も収穫できる。だから、私たちは東京のギフトショーという大きな見本市に出たときに、大手のメーカーから下請けにならないかと、たくさん声をかけていただきましたが、その全部をお断りしてゼロからスタートしたのは、自分たちのつくる思いを消費者の方に伝えたい、自分たちが価格決定権を持ちたいとういことで、ものづくりを始めたのです。

 2階には40畳ほどのフリースペースがあって、時々ここで大宴会を開いたり、コンサートを開いたりします。島根の根と根のある暮らしをテーマに、娘世代が「根々」という新しいブランドをつくりました。そのブランドを立ち上げたときに、この2階のスペースで彼女たちがやったことは、若い世代の地元にIターンで来た人、Uターンで帰ってきた人、それからそのまま地元に残り稼業を継いでいる人たちに「あなたにとっての根っこは何ですか?」と取材して、メッセージと顔写真を載せて展示をしました。こういうふうに引き続き私がしてきたことを娘世代も同じようにしてくれていることがとてもうれしいと思います。

看板猫のキムチから学ぶ

 飼い猫のキムチです。娘が学生時代にひとり暮らしは寂しいとペットショップにカメを買いに行ったとき、このキムチと名づけた猫が半年たっても売り物にならない、というのは、ちょっと障害があり片目が不自由ということで、ペットショップのおじさんが、「お姉ちゃんこれ飼ってくれたらえさもつけるよ」ということでもらって帰ってきた猫なのです。娘が夏休みに連れて帰りましたら、このキムチは大森のまちが気に入ったのか、いつも自由に大森のまちを歩いています。最近はちょっと有名猫になって、まさに看板猫です。そして自宅が昔呉服屋でウインドーがあったので長女がディスプレイをして「家宝は寝て待て」という掛け軸までかけてあるのですけれども、日がな一日、この子はここで寝ているのです。キムチが古い街並みを散歩しているところや木陰でお昼寝するところなど、スタッフが写真をとりまして、先ほどの2階で展示会を開きました。そのときに次女が、ただ展示するだけじゃおもしろくないということで文章を書きました。「私、キムチと申します。縁あってこのまちにやってきました。猫の立場で申しましても、とても過ごしやすい良いまちです。ちまたでは和みやら、いやしやら耳にいたしますが、本当のいやしをお見せしましょう。私、プロのいやし業ですから。最近、人間は何かと忙しくて、猫の手も借りたいわ、などと申されますが、決して貸してあげません。それは代々猫が守っている文化ですから」みたいなことが書いてあって、すごくおもしろいのです。最後には「人間は人間の文化をちゃんと守っていますか」なんて、説教までされているのです。そして、共生というテーマで、去年ねずみ年でしたので、米俵につくりもののネズミの大軍とキムチいがいる。天敵と言われるネズミさえも受け入れて共生しているという、共利共生社会をキムチは象徴的に表現しているというディスプレイをしました。猫1匹でも、いろいろな表現ができるわけです。アーケード街にお客様が来られないというのは、ただ物を売ろうとしているからだと思うのです。もっともっと自分たちのメッセージを伝えていくならば、楽しい売り場ができるならば、お客様も足を運んでくださるのではないかと思います。

元気の源

 飼い犬の名はゲンさん、新種の犬ではありません。顔の腫れた犬です(表紙の写真)。若気の至りとかゲンさんの晴れ姿と呼んでおりますけれども、実は生まれて6カ月もたたないころ、山へ行ってマムシに刺されました。1週間ぐらい腫れている間は、ゲンさんはカールゲンと呼ばれて、カールおじさんみたいな顔になっちゃったのです。この時の写真をお札にして、元気札と名付けました。なぜかというと、このときゲンは一番つらかったはずです。自分が一番つらいときに人を笑わすことができた、これが元気の源であるということで、私は日めくりの上にゲンの顔を張って、毎朝これを見て笑って「ゲン笑ってごめんね」といいながら元気をもらっています。

優柔不断な性格

 夫の松場大吉です。キムチとゲンと大吉と我が家のオス3匹と呼んでいますけれども、とってもおもしろい人です。結婚して33年たちますけれども、あきない人です。彼の性格を例えていうと優柔不断です。優柔不断というと、大体悪いイメージですけれども、字でいうと優しくて柔らかくて断じないというとてもいい意味合いですね。私、とてもいい性格だと思うのです。私の血液型はA型で、どちらかというとまじめなほうです。どうしても二者選択の思考回路ですが、彼は必ず、第3の道を探す人なのです。そして、私はよく「絶対こうよ」というと「おまえ、絶対という言葉は使うな。世の中に絶対ということはないのだ」といつも言われます。松場家の家訓はつぶしがきくということだそうで、その柔らかさが常に経営でも生かされていると私は感じております。

群言堂の意味

 小さな大森の街並みの中の一番小さな一番質素な家、これが群言堂というブランドが生まれ、原点になった家です。我が家にはしょっちゅういろいろなところからお客様がお見えになるので、お酒を飲む席が多いのです。私がお酒を飲むためだけに1軒欲しいと言ったら、夫が家を一軒買って改装してくれました。そのときに夫が、いっそ文明を排除した家にしてみないかと言ったのです。戦後、日本は経済発展とともに、文明の利器というものを生活の中に手に入れることがぜいたくで豊かな生活だと思い、今や大型冷蔵庫、テレビ、マイカーは当たり前にあるけれども、本当に幸せだろうかという疑問を持ったわけです。そこで、つくったのが、群言堂と名づけられた家だった。

 ここはロウソクの灯りだけで、お酒を飲むためにつくった家です。いろりに火を起こして、この火を囲んで、みんなでわいわい言って、お酒を飲みます。ある時、中国からの留学生がホームステイしたことがあります。そして彼が教えてくれた言葉が「群言堂」でした。群言堂というのは、みんなが目線を同じにしてわいわい言いながら、いい流れをつくるということで、とても理想だということでこの空間を群言堂と名付けました。

昔の日本の暮らしには・・・

 他郷阿部家という会社を昨年度設立いたしました。親子はスープの冷めない距離といいますが、夫婦は愛の冷めない距離と私は呼んでいまして町内別居をしています。私はこの家に住みながら10年かけて改修してきましたが、今も進化しています。それは、語り尽せないほどの廃墟でした。そして株式会社他郷阿部家は、群言堂という名前を教えてくれた方の奥さんが我が社にいまして、私が、旅先であたかも実家へ帰ったような、また兄弟に迎えられたような、親戚へ行ったような、そんな滞在ができるような場所にしたいという意味合いを伝えたら、彼女が「他郷」という中国語を教えてくれました。まさに、もう一つのふるさとという意味合いがあるということで、社名を他郷阿部家にしました。そして、先ほどから私は8軒も家を直してきたと言いましたけれども、本店とロウソクの家の群言堂以外は、すべて阿部家、吉田家というように元の持ち主の方で家を呼ぶようにしております。

 私がもし台所を持つなら、土間があり、おくどさん(かまど)のある台所にしたいと思い、実際につくりました。私は毎晩かまどで御飯を炊きます。今、世の中はシステムキッチンだとか、電化住宅という方向にいっています。そういう豊かさを求め、快適さを求めつつ、もう一方では環境問題などと言っていますけれども、日本の古いライフスタイルの中には、エコロジー、リサイクル、スローライフなど、横文字で言われているような言葉は、すべて昔の日本の暮らしにはあったわけです。そして、私は母から井戸の周りには水神様がおられるから刃物を置いてはいけない、おくどさんの上にも荒神様がおられるから汚いものを置いてはいけないとしつけられたものです。

 数年前まではクリスマスをお祝いして除夜の鐘を聞いて初詣をするという日本人は、節操がない国民性だなと思っていました。ところが、ここの台所で気が付いたことは、出雲は特に八百万の神が集まっているところで、八百万の神を認める国というのは世界中探してもないわけです。自然の中にさえも、神様がおられる。そして、100年も使えば、道具の中にも魂が宿るという文化を持った国民性というのは、ほかにはないと思います。そういう意味では、日本は世界の中でも最も平和な国民性を持ったところだと思うので、私はもっと世界に向かって日本の文化を伝えていきたいと思うわけです。

お葬式から学ぶこと

 最近は、田舎でも隣組やコミュニティーというものが希薄になってきたと言われますけれども、私たちの町内ではだれかが亡くなれば、すぐに近所の人たちが集まって、どういうお通夜をしてお葬式をしてと、最後まで町内の人たちがお手伝いをして、お料理も全部賄うのです。このことは、どんな時代になっても、私たちはやり続けようと言っています。そして、我が家では次女が今30歳になりますけれども、最近はお葬式のお手伝いは娘が出てくれるようになりました。というのは、娘がその席に行くことによって、近所の年配の方々からおわんの手入れの仕方、お料理の作り方、全部習うことができたので、彼女にとってはとても興味のある場所です。この間、友人が訪ねてきて「中学生になったら、地元のお葬式をお手伝いに行かせればいい」と言っていましたけれども、本当にそういうことが大事になってきたのではないかと思います。

心想事成-心に思い描いた事が叶う

 群言堂という言葉を教えてくれた中国の友人がプレゼントしてくれた掛け軸に、心に想う事が成ると書いて「心想事成」とあります。何かできないと、自分には才能がない、お金がない、時間がないなど言い訳する人が多いのですが、私は思う気持ちこそが一番の力だと思います。私は、小学校は落ちこぼれでした。中学校はちょっと精神的な病気もした上に、中学校2年を2回やりました。その後も親が心配するような何年かを過ごしました。でも、こうなりたい、自分はこうしたいという気持ちだけは人一倍強かったように思います。その後、石見銀山という土地と出会ってから、何かしら自分の中から噴き出てきたものがあって、それがこうありたいと願った自分の強い思いだったわけです。だから、決して成功したわけではないけれども、今の厳しい時代にあんな山間の小さな会社でやっていける、そして、7軒も8軒も民家を再生できたということ自体が私は奇跡だと思います。そういう意味で心想事成、これは一番大事にしたい言葉だと思っております。

借景はつくれない

 小さなまちですけれども、コンサートを何回か開いてきた縁でトーマ・プレヴォさんというフランス人の著名なフルート奏者と出会いました。彼が我が家に泊まった翌朝、これからの人生の半分はこのまちに住みたいとおっしゃったのです。そして、1軒の家をお世話しました。トーマ・プレヴォさんといえば世界的に有名な、フルートの奏者です。そんな方にこんなボロの家をお世話するのは失礼だとだれもが思ったのです。ところが、夫の松場大吉は、大森が本当に気に入ったのならば、彼はこの家を気に入るはずだと言いました。この家のリビングからは竹林が見えます。この竹林の向こうには小川が流れています。その小川のところには2件の古いお寺があります。時間がくればお寺の鐘の音が聞こえます。夫から「あんたたちは家しか見ていないだろう、家は直せば直る。でも、この借景はつくるにもつくれない、買うにも買えないものだ。だから、建物だけでなく周辺の景観も含めて、それ全体が価値だ」ということを教えられました。

鄙(ひな)のひなまつり

 私が嫁いだ頃は、都会こそ豊かだ、という時代でした。そういう中で、私は、田舎の貧しさは、その豊かさに気付かないことじゃないかと思ったのです。満天の星、飛び交うホタル、山の木の触れあう音、きれいな水が一日中家の前を流れている。そういう豊かさに本当に気付いていなかった。そこで、田舎に暮らす女性の意識を高め、より豊かな暮らしを考えるということをテーマにイベントをしたのが鄙のひなまつりでした。そして、小さなまちだからできることをやりたいと、まちのどこかに年に1回集まって、まちの全員で写真を撮ろうということで18年間続いております。私の目標は50年です。まちの家族写真みたいなものです。こんなすてきなことのできるまちはそうそうないでしょうということが私の誇りです。長年撮り続ければ、まちの立派なアルバムとして歴史に残るのではないかと思っています。

世界遺産に登録されて

 どうも日本では観光が経済振興のためにあるように思われているみたいで、本当の意味での暮らしの宝だとか、光輝くものをなくして、観光になるのだろうかと私は疑問に思っております。世界遺産も観光振興のために獲得しようとする動きがあるように思います。世界遺産になってよかったと思うことは、自分たちの足元を見直すいいチャンスだったということ。それから島根県が銀の経済意義をとなえて世界遺産に申請したときは評価が非常に低かったのですが、それが世界遺産に認定されたときの評価というものは、世界中の鉱山遺跡が荒涼とした風景になっているにもかかわらず、石見銀山は自然と共生している、そして、その街並みが残った文化的背景というものが評価されたということでした。裏返してみると、大変皮肉なことですけれども、近代化に乗りおくれた鉱山、そして経済発展に立ちおくれた街並みに価値があったわけです。だから、これから石見銀山、大森町が評価を受けたことによって、どういう方向を目指すかということに私たちは問われているのではないかなという気がしてなりません。

土地の力

 私は自分の力じゃなくて、土地の力に支えられていることを常に実感しています。土地には長い歴史の蓄積の中に、その土地本来の力があるわけで、ある人はまちおこしよりもむしろ地を鎮めることのほうが大事ではないかと言われた方がありますけれども、私たちは土地の声を聞きながら、響き合いながら、土地に敬意を払って暮らしたいと思います。

平成21年度「群馬ふるさとづくり賞」受賞~喜びの声~

 群馬ふるさとづくり賞は、活力ある地域づくりに取り組んでいる優れた団体を顕彰するものです。

 6回目となった今回は、応募総数7団体あった中から群馬ふるさとづくり賞に「みのわの里のきつねの嫁入り実行委員会」と「エンジョイネットワーク片品」の2団体が、群馬ふるさとづくり奨励賞に「富岡製糸場を愛する会」の1団体が受賞となりました。今回もすべての応募団体が、審査員を悩ませるほどのすばらしい活動をされていました。

 表彰式は、6月30日(火曜日)の平成21年度の総会の席上で執り行われました。
 ここでは、受賞団体からの喜びの声をご紹介します。

受賞によせて みのわの里のきつねの嫁入り実行委員会 代表 岡本優子

 2001年、2002年、本県で開催された国民文化祭・ぐんま文化の日の理念と精神を継承し、自主・主体的な文化活動の中から「みのわの里のきつねの嫁入り」は誕生。

 それは、地域の人たちを中心に様々な考えを持った人たちが集い郷土愛の高まりを図り、創造性豊かな地域づくりをめざしてきたものです。

 このたび群馬県地域づくり協議会より平成21年度「群馬ふるさとづくり賞」というすばらしい賞をいただきました。誠にありがとうございます。ここに長年の努力と汗の結晶が認められることとなったのです。毎回、この事業実施に伴い、ご参加、ご協力、協賛していただいております関係各位の皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。心よりお礼を申し上げます。これからも古城の里の品格を大切に、皆様に末長く愛されるイベントになるように一層の努力と進化をしていきたいと思います。

 白い可憐な萩の花と野菊が咲く花のふる里では、きつねのメイクで魔法にかかった精霊たちが、盛装に身を包み、それは美しく、真剣に舞いて演じてくれることでしょう。どうぞ皆様、仲秋の一日、きつねたちに化かされるのも楽しく、遊びにおいでくださいませ。

みのわの里のきつねの嫁入り実行委員会 活動内容

 「きつねの嫁入り」は、廃虚となった箕輪城にいつしか住み着いたきつねたちの物語を描いた創作劇で、昭和30年代まで実際に行われていた輿(こし)入れや三三九度などの婚礼の儀式を再現するもの。毎年、10月の第一日曜日に開催される。「きつねの嫁入り行列」や野外創作劇「きつねの嫁入り」などが披露される。

群馬ふるさとづくり賞を受賞して エンジョイネットワーク片品 代表 入澤眞理呼

 私たちは、片品村という山村から、ある種限られた地域としては初めての、住民発動的な活動を異なる分野で数多く仕掛けてきました。私たちは「どういう世界に住みたいか」17年間の間に、様々な分野に各メンバーが首を突っ込みいろいろな活動をしてまいりました。それを皆さんに支えていただきながら、また共有しながら地道に動いてきた、そのことを今回評価していただいたかなとメンバー共々感謝しております。私たちは、会員制という従来の組織ではなく、コアメンバーという事務局が10人おります。この10人のほかにはサポートメンバーやリンクメンバーで構成され、村内外・県外にもたくさんの応援団がおりまして、つながっている人数は200人を超えて、今は無限大のランダムネットワークで把握しきれておりません。また、会員という組織をとっていないため、会費も取っておりません。事業をやるたびに皆さんからの真心のこもった持ち寄りによってやっていくという、できる時にできることを楽しくやりましょう、を一番の基本としてやり続けております。そこで培われた信頼関係から健康な地域づくりやビジネスも生まれ育まれてきています。

 17年たちましたけれども、まだこれから県外、また全国、全世界にもメンバーをつなげていって、「暮らしつづけたい世界、楽しい地域づくり、人づくり」を続けていくつもりです。これからも皆様からのご指導ご声援を賜りたいと思います。このたびは誠にありがとうございました。最後に皆様と共有したいことを…

  • 「どんな世界に住みたいですか?」
  • 「どんな世界をつくりましょうか」
  • 「そのために自分は何を貢献するのか、どういう役割を担いたいのでしょう」

エンジョイネットワーク片品 活動内容

 宝さがしin片品 ふれあいバザール(年1回7月頭 ・今年度17回目)、花いっぱい運動・環境美化・景観提案、村行政との連携、情報収集・発信、消費生活展参加(年1回環境と人に優しい情報啓蒙)等を行い、また、各メンバー(コア・リンク含む)の個人活動もサイドより応援している。

群馬ふるさとづくり奨励賞を受賞して 富岡製糸場を愛する会

 当会が発足し、今年で21年目を迎えます。「本会は富岡製糸場の歴史的、文化的、産業的な遺産価値を認め、これを愛護する者をもって組織し、富岡製糸場について共に学び合いながらその輪を広げることを目的とする。さらに『富岡製糸場と絹産業遺産群』が、世界遺産に登録されることを期待し推進するものとする。」と定め、これまでも地域住民に対し、日本が誇る歴史的建造物である富岡製糸場の価値を理解していただくことが重要との考えから、様々なグッズを作成し教育啓発に力を注いでまいりました。また、製糸場内のボランティア活動も継続しており、現在ではその活動を知った会員外の方々や他の団体も参加し、着実に広がりをみせています。

 この度の受賞を弾みにして、今後もより多くの市民自身が「富岡製糸場と絹産業遺産群」の価値を深く理解し愛着を持つためにはどのような活動を行うべきなのかを考え、広く関心を持ってもらうための教育啓発活動や事業展開を行い、長い目でまちづくり・地域振興と文化遺産の保存を両立させることを目標に地道な市民活動を継続していきたいと考えております。

富岡製糸場を愛する会 活動内容

 富岡製糸場内の清掃ボランティア、教育啓発用ビデオ、DVDの製作、学びパンフレットの作成、養蚕施設等の見学及び学習会等の実施、群馬県、富岡市主催による各種イベントへの参加、チャリティー事業の実施、富岡製糸場においての主催コンサート等を行っている。

地域づくり人物リレー 第3回

榛名まちづくりネット 芹澤 優さん

 地域づくり人物リレーは、県内で地域づくり活動をされている方を取材して、県内には多くの優れた人材がいることを知っていただこうと企画し掲載しております。毎回、次にバトンを渡す人を紹介していただいております。次にバトンが渡されるのは、あなたかもしれません。第3回目は、杉原さんからバトンを渡された芹澤さんにお話を伺いました。

地域づくりのきっかけ

芹澤優さん

榛名地域は、県の中西部に位置し「山のさびしい湖に…」と歌われた{湖畔の宿}のモデル地―榛名湖や竹久夢二が終の地と定めた上毛三山のひとつである榛名山がある。そこで夢二が「榛名山産業美術研究所構想」―{これを是非、ご覧になってもらいたいものです}を提唱したのである。豊富な地域資源を活用し、地域住民の支援と賛同を得ながら昭和5年に、地域おこしをしようとした史実があるので、「これはすごい!」、これを継承しない手はないと奮起し、まちづくりをやるぞと今から30年ほど前に熱き思いで仲間と立ち上げたのである。もちろん、その前から今につながるいろいろな活動を行なってきた。

 榛名南麓は日当たりが良く、梨、梅、桃、プラムなどの果樹類、酪農、養豚、キノコ類等の林産物が育つ肥沃な土地で、みどりと水資源に恵まれている。標高差が1400メートルほどある地形にあることから、何でも育つのである。だが、社会的に認知された、これと言った特産品というものがないのである。

 一方、観光面においても榛名山という観光資源があり、首都圏からのアクセスも良好であり、多くの歴史的、文化的資源(里見城址-里見氏、鷹留城址―長野氏、榛名神社、大森神社、白岩観音、神山宿、室田宿など)がある。

 以上、概観のように、榛名山麓は農山村地域としては都市に近く、他の地域に比べれば地域を活性化させる要因に恵まれている。

 このような条件下にある榛名を、我々は積極的に、地域特性を活かしたまちづくりを進めていくことが是非とも必要であると考えた。

 しかし、都市に近く、何でも出来るという恵まれた立地条件と歴史的に江戸時代初期からは、侵略されないという安心感が根底にあり、危機感がなくなり活性化させようとする活力を低下させてしまい、これが現代までつながってしまったのである。明治以降、長い歴史の中でこれまで培われてきたシステムを変えられてしまったことが、第一次産業の衰退を招く結果となってしまった。ひいては、農林業の後継者が減少してしまい、郷土保持の思いや危機感がなくなってしまったのである。

 肥沃な榛名山麓は、地理的にも、気候的にも恵まれ、素晴らしい自然があり、温暖な気候で大きな災害もなく、あらゆる農林畜産物が育つ環境にあるという恵まれた条件にあるが、社会的ステイタスはまだまだ低いのである。好条件に恵まれていない地域の三分の一の努力をすれば素晴らしい地域になると思い、そこで一つの産業のみを伸ばすのではなく全ての産業をひとくくりにして、異業種をネットワークさせ、一層パワーアップさせれば自然の万物に優しい【理想郷】が創造できると確信したのである。そして、この地域を、自信を持って次世代に引き継ぎたいと思いながら、先を見越したアウトロー的な諸活動を行っているのである。

活動内容

  • 水とみどりの保持、保全・活動

 農林道整備清掃や里山保持のため、千利休太祖の地・里見郷復興活動として「里見城址」の整備・草刈を定期的に実施している。また、歴史的交流として戦国大名の里見氏ゆかりの房総館山NPO、鳥取県倉吉市、土岐市との連携交流活動を行っている(里見氏は榛名の里見が発祥の地で、館山(房総を支配)で隆盛を誇り、江戸初期、10代「里見忠義」が安房から倉吉に国替えになり、忠義は29歳で没し、里見氏は1622年に断絶したのである)。

  • 山野食物の育成

 山野の必要性から、行者にんにく、こごみ、ミョウガ、ふき、わさび、たらの芽等の育成を行っている。

  • 交流から定住対策活動

 遊休農地再興活動として食の生産、芸術活動として陶芸、染色、木工、竹細工等、癒し推進活動として土作り、作付け・創作体験、収穫祭、情報交換会、交流会、野外発表会、コンサートを行っている。これらの活動拠点として、県産材を活用したミニロッジ『夢現庵』を建立し、ミニロッジの建立促進と同時に定住促進を図っている。ひいては農林業振興にもつながっている。

  • 都市と農山漁村交流活動

 板橋区との交流(清水ファミリーデー)。板橋区と榛名地域は、太古の時代から上下流域水の関係で、深い繋がりがあり、また太平洋戦争時は板橋区の多くの方々が榛名へ疎開されていた。そのような縁から、板橋区との友好交流をより一層深めようと先陣をきって営業を展開し、交流が復活した。

 館山では、南総里見まつり、やはたんまちなどにも参加して交流を図っている。

地域づくりへの思い

 次世代につなげていくために、この榛名の地を守ろうと必死になってやってきた。ここまで来るには、様々な困難や障がいがあった。それを乗り越えられたのは、夢を同じに持つ仲間がいたからこそ、それから、子どもや孫にすばらしい榛名を引き継ぎたいとの思いがあったからこそできた。我々は、土の地下約30センチメートルに生かされている。土を耕し、安全で安心な食物を作り、食すことで土からのエネルギーをもらっている。その大切さに気付いて欲しいと収穫&交流会を行っている。また、歴史的なつながりのある館山や倉吉、板橋区との交流も大切にしている。我々が今ここにあるのも、過去の歴史があったからこそ。だから、この地でどのような人がいて、どのようなことがあったのか知ることでこれから何をやっていくべきか見えてくる。集まるメンバーもだんだん限られてきたが、できる人ができる時に、できることを続けていくつもりである。

地域づくりをやってきて良かったこと

 自分の生地(せいち)を、魅力ある地域にしようと頑張っている人々に巡り会えたこと、自分自身が大自然の中で一生物であることを認識できたこと、巨人軍の監督をやめて「花と緑の農芸財団」の理事長をしていた元気な長島茂雄さんと、自然保持と農芸の事を語り合ったことが良い思いである。

 また、「大地の会」で今は亡き藤本敏夫さんらと韓国に訪問したこと。

これからの夢

 やりたいことは、日本、世界のなかで自然と人間が共生している地域を訪問すること。

 夢は老若男女、世代間が交流・創作・生産活動が出来るスペース、ゾーンの構築。

 やらねばならぬことは、水と緑と食の生産地【中山間地域】が荒廃化しつつあるので、これを止めること。そうでないと中山間地域=山間部は滅びてしまう。山間部が滅びれば都市も滅びることは必至。故に、この活動を地道に行なっているのである。

最後に一言

 横糸と縦糸がないと布にはならない。官、民との横軸・縦軸の連携なくして活力のある、強い布陣〔地域〕は張れないのである。そのため榛名山麓「横軸・縦軸」情報交換会等の活動を実施し、認め合う事業を行っているのである。

好きな言葉

 自然のため、世のため、人のため、自分自身のためにやれることをやる。足るを知る。「知足安分」

感銘を受けた本

 仁に生き、義によって戦った上州の名将
 「長野業政」野口泰彦著(学陽書房)
 榛名山麓の史実を再度、覚醒させ郷土愛を奮い立たせるために。

印象に残る人物

 近藤亨氏
 地域づくり団体「未来塾」で開催した文部科学省{学びあい・支えあい}地域活性化事業で講演された方。

 この方は新潟県庁(農業技術指導員)の退職後、JICAに勤務し70歳で定年、その後、故郷の家や土地を処分して資金を作りNGO団体を設立。ネパールの不毛の地ムスタンに移住し、農業技術指導や学校建設を続け、世界最高地での水稲栽培に成功。教育の機会の少ない子ども達のために建てた学校は17校。
 87歳という高齢をものともせずに命を削るように挑み続けている方である。元公務員にもこういう人がいるということに驚き、感動した。

自分をものに例えると?その理由

 アブラムシ・・どこでも生きられるから~嫌われても…?

 行者にんにく・・胡散臭くて、クセはあるが、いざという時によく効くし美味い?

次にバトンタッチする人

松本立家さん―お隣の地域、安中で地域活動を頑張っている人だから。よろしくね!

  • 次回は、松本立家さんにお話を伺う予定です。