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古墳時代後期に造られた観音山古墳は全長97メートル、横穴式石室は全長約12メートルと大型であり、当時の技術の粋を集めた構造物と言えます。
天井石には最大22トンの巨大な牛伏砂岩が使用されていて、この高度な石室構築・巨石運搬技術は、最先端の技術を持つ畿内地域からもたらされたと考えられます。
金銅製心葉形透彫杏葉
銅製水瓶
獣帯鏡
観音山古墳からは、金銅製心葉形透彫杏葉(こんどうせいしんようがたすかしぼりぎょうよう)(写真右)、銅製水瓶(すいびょう)(写真左)、獣帯鏡(じゅうたいきょう)(写真下)など、豪華な副葬品が多数発見されました。これらはヤマト王権下で製作されたものか、ヤマト王権が外交を行う中で東アジアの国から入手したものと推定されます。
このことから観音山古墳の主はヤマト王権とつながりの深い、国際性豊かな人物であったと考えられます。
当時の人々は、朝鮮半島から伝わった死生観により、死者を納める場として横穴式石室を造り、死後の世界「黄泉の国」を表現しました。
観音山古墳の横穴式石室には県内最大の玄室があり、その内部を見学することができます。
(要事前連絡)
石室の中の様子
保渡田古墳群は、井出二子山(ふたごやま)古墳、保渡田八幡塚(はちまんづか)古墳、保渡田薬師塚(やくしづか)古墳の3基から成ります。それぞれが全長100メートル前後の大型前方後円墳です。そのうち保渡田八幡塚古墳は平成11年度に整備され、大型前方後円墳の復元例として全国的に広く知られています。
古墳は一面葺石(ふきいし)で覆われ、約6千本の円筒埴輪や50体以上の人物・動物埴輪が並ぶ姿は圧巻です。
復元された形象埴輪群
井出二子山古墳と保渡田八幡塚古墳の内堀の中には「中島」と呼ばれる直径18メートルほどの小型の円墳のような円形施設が四つずつあります。
祭祀に関連した出土品が数十点見つかった島もあり、儀式の舞台として使われていたという説が有力です。
古墳の内堀にある「中島」
立歴史博物館教育普及係 係長 深澤敦仁(ふかさわあつひと)さん
「古墳時代の文化や技術は、現在の群馬の成り立ちに大きく影響を及ぼしています。
5世紀に朝鮮半島から『上毛野国』に伝わった馬は、軍事・農耕などの手段としてとても貴重でした。また畿内地域と東国を結ぶ内陸交通の手段としても重視されていました。
馬の生産に適した地形や土壌を備えた『上毛野国』は、古墳時代における国内有数の馬の生産地でした。また畿内から東国への入り口に当たる交通の要衝でもありました」
「群馬にある多数の大型前方後円墳はヤマト王権との密接な関係を示すもので、その関係を支えた有力な豪族が県内各地にたくさんいたことを物語っています。
豊かな経済力と技術力を持った豪族は多くの人を養うことの対価として、古墳を造り続けるために必要な膨大な労働力を得ていました。農閑期になると農民は古墳造りに携わり、親子代々にわたることもありました。
古墳は有力な豪族の墓であると同時に、古墳造りに携わった人が誇れる地域のシンボルでもあったのです」
古墳に関する基礎知識
古墳時代後期(6世紀)の群馬では、2度にわたって榛名山が大噴火しました。
6世紀初めの1度目の噴火では、発生した火砕流で村人や馬が被災し、村全体が火山灰に覆われたことで当時の様子がそのまま保存されました。
近年、金井東裏遺跡や金井下新田遺跡(いずれも渋川市)から、当時の被災の様子が分かる大発見がありました。
甲を着た古墳人
24年11月、金井東裏遺跡から甲を着た人の骨が発見され、大きな話題になりました。
28年11月には、隣接する金井下新田遺跡から子馬の骨や古代人の歯が発見されました。遺跡周辺で馬の生産や飼育が行われていたことを証明する大発見となりました。
29年5月に、金井下新田遺跡で勾玉(まがたま)などの首飾りをした古代人や平地(へいち)建物、鍛冶(かじ)遺構などの発見が相次ぎ、現在も調査が続いています。
墓以外の場所から首飾りをした人の骨が発見されるのは、全国的にも珍しく、貴重な発見です。