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令和8(2026)年、大河ドラマで『豊臣兄弟』が放映されています。意外かもしれませんが、当館には豊臣秀吉の書状をはじめドラマに出てくる武将の書状や花押が残されています。本展示は、「豊臣だけじゃない! 誇るぐんまの兄弟展」というテーマで開催いたします。秀吉や戦国大名に関する文書の紹介をはじめ、戦国から昭和に至るまでの群馬県に関わる歴史上の様々な兄弟の文書を取り上げます。本県の歴史を語る上で欠かせない人物、あるいは本県由来の人物のなかには、兄弟で名をはせた人たちが存在します。当館が収蔵する多彩な史料から「きょうだい」を視点に群馬県の歴史を振り返ることで、郷土史への探究と関心を深めていただければ幸いです。
展示史料一覧(順次更新します)
(1)八木家文書 戦国花押集とは
「八木健次家文書」に伝来した大変珍しい史料です。戦国時代から近世初期の武将・大名の書状から差出の部分を切り取り、継紙に貼付した史料です。印判はなく全て花押です。点数は180点。連署の花押があるため重複を含めて185名分あります。寸法は縦30.0センチメートル、横557.5センチメートルと巨大な史料です。なぜこのような史料が作られたのかは不明です。観賞用、お手本、古文書の真贋(しんがん)の判定用、などが考えられますが、決定打にかけます。大まかな構成として前半は戦国期の大名・武将と近世初期の大藩の外様大名が多く集められており、今回の大河ドラマに出てくる足利義昭・石田三成・織田信孝・毛利輝元・藤堂高虎・前田利家らの花押も見ることができます。
なお剥離の危険があるため、複製による閲覧となっています。
(2)花押とは
花押とは平安中期以降にあらわれた署名のことです。自己の名乗りを草書体で書いた場合を草名(そうみょう・そうな)といい、草名がさらに判読できない程度に図案化されると花押と呼ばれます。
明治6年(1873)には、実印のない証書は裁判上の証拠にならない旨の太政官布告が発せられ、花押はほぼ姿を消し印鑑が取って代わることとなりました。ただし政府の閣議における閣僚署名は、明治以降も花押で行うことが慣習となっており、現在も続いています。
| 番号 | 表題・資料名 | 和暦年 | 西暦年 | 文書群・簿冊名等 | 請求番号 | 文書番号 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 戦国花押集 (PDF:1011KB) | 近世 | - | 八木健次家文書 | P09702 | 1593 |
文書館が所蔵する古文書の圧倒的多数は、近世・近現代文書が占めています。意外と知られていませんが、戦国時代から近世初期の古文書も少ないながらも残されており、その多くが閲覧可能です。
先祖が前橋藩主松平大和守家に仕えた関係で前橋にもたらされたのが八木家文書(P09702)です。直接群馬県とは関わりはありませんが、天下人織田信長・豊臣秀吉などの著名人や本願寺関係の古文書が残されています。「花押集」以外は閲覧室で現物を閲覧できます。
八木家以外の前橋藩士の家に伝来したものには、栗間良輔家文書(P0010)と若林茂生家文書(P01207)があり、栗間家文書には秀吉家臣で肥後熊本領主の加藤清正書状4点などが含まれ、若林家文書には近世初期の宛行状が残っています。
群馬県に関わる戦国時代から近世初期の文書がまとまって残っているのが、飯塚馨家文書(P8214)と浦野安孫家文書(P0603)です。飯塚家文書には、戦国時代から近現代に至るまでの三波川村(藤岡市)の古文書が膨大に残され、中でも戦国大名から受給した文書や江戸初期の検地関係の文書は貴重です。浦野家文書には、先祖が本山派修験の大乗院を名乗っていた関係から、和田山極楽院関係と浦野家(大乗院)の文書が残され、著名人の古文書も残されています。
| 番号 | 表題・資料名 | 和暦年 | 西暦年 | 文書群・簿冊名等 | 請求番号 | 文書番号 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 2 | 豊臣秀吉朱印状 | 年不詳 | - | 八木健次家文書 | P09702 | 1592-7 |
| 3 | 太閤様御判 | (天正8年カ) | 1580 | 八木健次家文書 | P09702 | 1592-2 |
| 4 | 織田信長朱印状 | 天正4年 | 1576 | 八木健次家文書 | P09702 | 1592-3 |
| 5 | 〔徳川家康黒印状カ〕 | (慶長5年カ) | 1600 | 浦野安孫家文書 | P0603 | 15 |
| 6 | 味方ヶ原三里四方(法性院布陣図) | 年不詳 | - | 加藤史夫家文書 | P1706 | 370 |
関東管領で上野国守護の上杉憲政(のりまさ)は、天文15年(1546)武蔵河越合戦(埼玉県)で小田原北条(ほうじょう)氏に大敗し弱体化、同21年本拠の平井(ひらい)城(藤岡市)も奪われ越後国(新潟県)へ亡命します。上杉守護領国の崩壊で多くの上野国衆(くにしゅう)(在地領主)は北条氏に従います。しかし越後の上杉謙信(当時は長尾景虎)が永禄3年(1560)憲政を伴い関東に出兵すると、赤井・那波氏以外の上野国衆はこぞって謙信に出仕します。一方、北条氏と結ぶ武田信玄が、同9年箕輪(みのわ)城(高崎市)の長野氏を滅ぼし西上野の領国化を果たすと、厩橋(うまやばし)の北條(きたじょう)氏や東上野(ひがしうえの)の国衆は小田原北条(ほうじょう)氏に従います。この結果、上野国は上杉・武田・北条(ほうじょう)という三つの戦国大名の勢力に分割され、関東最悪の紛争地帯と化しました。
こうした戦国大名の動向に翻弄されながら国衆という在地領主は生き残りを図りました。戦国末期には、新田金山城主由良国繁(ゆらくにしげ)・館林城主長尾顕長(あきなが)兄弟による「渡良瀬兄弟領国」が両毛国境の渡良瀬川流域に形成され、戦国大名にも対抗しました。由良氏は、新田荘の支配者岩松氏を下剋上で倒した横瀬(よこぜ)氏が改姓したもので、成繁(なりしげ)・国繁父子の時に桐生佐野(きりゅうさの)氏など周辺領主を滅ぼし、現在の太田市・伊勢崎市・桐生市を支配下に置きます。一方、足利長尾氏は上杉謙信に従った功で赤井氏の旧領館林を与えられ館林城主となり(館林長尾氏)、現在の足利市・館林市を支配下とし、成繁の次子顕長が養子となりました。由良・長尾両氏は、天正11年(1583)北関東の反北条連合に加わり北条氏と戦うも、翌年には金山・館林両城を奪われてしまいます。後に由良・長尾兄弟は再び北条氏に反旗を翻しますが敗れ、同18年小田原征伐の際には兄弟で北条方に動員され小田原城に入城、敗戦後に改易となっています。
| 番号 | 表題・資料名 | 和暦年 | 西暦年 | 文書群・簿冊名等 | 請求番号 | 文書番号 |
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| 7 | 永禄6年上州箕輪城絵図 | 明治9年 | 1876 | 土屋喜英家文書 | P1103 | 26 |
| 8 | 北条氏邦朱印状 | 天正15年 | 1587 | 飯塚馨家文書 | P8214 | 12289 |
| 9 | 猪俣邦憲判物 | 亥(天正15)年 | 1587 | 飯塚馨家文書 | P8214 | 12291 |
| 番号 | 表題・資料名 | 和暦年 | 西暦年 | 文書群・簿冊名等 | 請求番号 | 文書番号 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 10 | 八幡山番帳 | 天正16年 | 1588 | 富澤久幸家文書 | P0905 | 631 |
| 11 | 大坂冬御陣図 | 年不詳 | - | 石井忠樹家文書 | P01102 | 11—1 |
| 12 | 上野国沼田倉内城絵図 | 天和2年 | 1682 | 新治村猿ヶ京区有文書 | P8504 | 233 |
| 番号 | 表題・資料名 | 和暦年 | 西暦年 | 文書群・簿冊名等 | 請求番号 | 文書番号 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 13 | 滝川一益判物(上野国惣山伏年行事職仰付) | 天正10年 | 1582 | 浦野安孫家文書 | P0603 | 2 |
| 14 | 〔小幡陣屋図〕 | 年不詳 | - | 群馬県行政文書 | A0181A0B | 5442 |
| 15 | 軍配山古墳の図(古墳調査台帳) | 昭和10年 | 1935 | 群馬県行政文書 | A1007A0B | 33 |
| 番号 | 表題・資料名 | 和暦年 | 西暦年 | 文書群・簿冊名等 | 請求番号 | 文書番号 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 16 | 〔越前家御元祖中納言秀康公事蹟〕 | (近世カ) | - | 八木健次家文書 | P09702 | 218 |
| 17 | 覚(藤井村・砥沢村御関所通行規定) | 寛永8年 | 1631 | 神戸金貴家文書 | P8213 | 7713 |
| 18 | 大信寺図(古社寺調) | 明治28年 | 1895 | 群馬県行政文書 | A0384A0G | 526 3-2 |
江戸時代の上州は、水田には恵まれず、畑作が盛んな地域でした。人々は、荒地を開発して桑を植え、養蚕・製糸業などの諸業(しょぎょう)により民富(みんぷ)を蓄積しました。天明3年(1783)浅間山噴火を前後する時期から、貨幣経済の浸透により宿場などが町場化し、往来が活発になります。上州には寺社参詣や温泉場を目指して多くの人々が訪れるようになりました。農村部でも庶民教育が行われ、読み書き算用が普及します。上州を訪れた文人との文芸や学問の交流も盛んになり、上州の民衆世界が花開きます。
この頃、農村部では不斗出(ふとで)、欠落(かけおち)といって村から失踪する百姓が増え、農村人口が減少し、荒地や手余り地(耕作放棄地)が増大していました。博奕(ばくち)や地芝居(じしばい)などで散財して零落した百姓は、土地を手放し、無宿(むしゅく)(人別帳(にんべつちょう)から外れた者)、博徒(ばくと)(博奕打(ばくちうち))となって、治安の悪化を招きました。無宿・博徒は、親分・子分、あるいは義兄弟の契りを交わして集団化し、一家を形成することで反社会的様相を帯びていきます。国定村の忠次郎(通称忠治)に代表される博徒が横行した上州は、幕府による取り締まりの対象となっていきます。文化2年(1805)八州廻(はっしゅうまわ)りともいわれる関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)が置かれ、文政10年(1827)に寄場組合(よせばくみあい)という組合村組織が設置され、地域の顔役が大惣代・小惣代に任命され取り締まりが徹底されました。
上州の博徒は、江戸時代後期における農村荒廃を象徴する存在でもありますが、その一方で玉村宿寄場組合大惣代(だいそうだい)の渡辺三右衛門は、国定村忠次郎が窮民(きゅうみん)に金・米を施業したと日記に記しています。幕府代官羽倉外記(はくらげき)は、忠次郎が博奕で得た収益をもって隣村田部井(たべい)村にある磯沼(いそぬま)の浚渫(しゅんせつ)を行い、干ばつから村民を守ったエピソードを挙げ、為政者としての無力を恥じています。また、博徒を経験したのち、邑楽郡大久保村の名主となった高瀬仙右衛門は、寄場組合大惣代にまでなっています。この時代、村役人も、裏社会に通じて博徒集団と交渉する力量が必要だったのです。
| 番号 | 表題・資料名 | 和暦年 | 西暦年 | 文書群・簿冊名等 | 請求番号 | 文書番号 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 19 | 天明癸卯帖 二*松井素輪俳諧日記 | 天明3年 | 1783 | 松井家旧蔵文書 | P01013 | 805 |
| 20 | 諸国名家短冊集(羽鳥一紅ほか) | (近世カ) | - | 松井家旧蔵文書 | P01013 | 416 |
| 21 | 〔富永柳旨俳諧短冊〕(ほととぎす) | 近世 | - | 松井家旧蔵文書 | P01013 | 853-63 |
| 番号 | 表題・資料名 | 和暦年 | 西暦年 | 文書群・簿冊名等 | 請求番号 | 文書番号 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 22 | 乍恐以始末書奉申上候(島村伊三郎殺害一件始末申上書) | 天保5年 | 1834 | 福島英一家文書 | P0110 | 1417 |
| 23 | 〔大戸関所周辺絵図〕 | 天保13年 | 1842 | 吾妻町大戸区有文書 | P9302 | 77 |
幕末期、安政(あんせい)6年(1859)の横浜開港によって、日本は世界市場に乗り出していきました。明治維新後の新政府は、日本の近代化を目指して生糸の増産と品質改良に取り組んでいきます。近世のころから蚕糸業が盛んに行われた群馬は、蚕糸業の改革を主導していくことになります。
明治3年(1870)前橋藩が、器械(きかい)製糸場を前橋につくりました。スイス人技術者ミュラーの指導を受けたもので、イタリア式の繰糸(そうし)技術を取り入れた日本で最初の器械製糸工場です。明治7年(1874)に水沼製糸所(みずぬませいしじょ)(桐生市黒保根町水沼)が開業されます。前橋藩営(まえばしはんえい)製糸所を参考にイタリア式の器械製糸が導入され、西洋の繰糸技術が伝播していきました。星野長太郎(ほしのちょうたろう)・新井領一郎(あらいりょういちろう)兄弟は、この水沼製糸所を設営して製糸業の発展に寄与し、生糸貿易の販路の獲得を志して生糸直輸出を実現しました。明治4年(1871)に誕生した富岡製糸場に代表される官営模範工場のほか、こうした民間の製糸所が各地に普及していくことになりました。
近代群馬の蚕糸業発展の基盤に、教育県としての地力がありました。明治7年(1874)に熊谷権令(ごんれい)、明治9年(1876)に群馬県令となった楫取素彦(かとりもとひこ)は、県内の小学校から成績優秀な児童を集め、学力試験を実施して褒賞を与えました。東京高等師範学校教授で歴史教育者の峯岸米造(よねぞう)、東京帝国大学教授で美学者(びがくしゃ)の大塚保治(やすじ)、八甲田山(はっこうださん)雪中行軍で知られる陸軍大尉の福島泰蔵(たいぞう)、太平洋戦争終戦時の内閣総理大臣・鈴木貫太郎(かんたろう)とその弟孝雄(たかお)の兄弟などが、この試験を経験して学業に励みました。
明治11年(1878)『文部省第六報』に収録の「都邑学事概覧(とゆうがくじがいらん)」には、前橋が三重県松坂、石川県小松とともに、都府の右に出る地方教育都市と紹介されています。教育県群馬に残された、学校に関する貴重史料も紹介します。
| 番号 | 表題・資料名 | 和暦年 | 西暦年 | 文書群・簿冊名等 | 請求番号 | 文書番号 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 24 | 慶応記聞丗三(慶応4年2月~同年6月) | 慶応4年 | 1868 | 赤堀恒雄家文書 | P8902 | 87 |
| 25 | 〔拝借金証書一括〕 | 明治9年 | 1876 | 群馬県行政文書 | A0384A0G | 88 |
| 26 | 〔星野長太郎宛て大日本蚕糸会賞状〕(行啓ニ関スル書類) | 明治36年 | 1903 | 群馬県行政文書 | A0181A0M | 2483 2-1 |
| 27 | 貴衆議員一同(星野長太郎ほか集合写真) | (明治38年カ) | 1905 | 群馬県行政文書 | A0388B00 | 637 |
| 番号 | 表題・資料名 | 和暦年 | 西暦年 | 文書群・簿冊名等 | 請求番号 | 文書番号 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 28 | 群馬県立前橋中学校学則 | 明治34年 | 1901 | 黒岩英夫家文書 | P8311 | 9126 |
| 29 | 〔生徒修学旅行にあたっての注意事項〕 | 明治41年 | 1908 | 藤井新兵衛家文書 | P9201 | 4250 |
| 30 | 〔写真〕(群馬県立前橋中学校落成記念) | 昭和9年 | 1934 | 下城株式会社文書 | P9602 | 2374-13 |
| 31 | 行幸改築記念(鈴木貫太郎閣下御染筆) | (昭和9年) | 1934 | 下城株式会社文書 | P9602 | 2374-16 |
| 32 | 〔鈴木貫太郎書状〕(二・二六事件の襲撃にて身に三弾を受け候も経過順調の旨) | 昭和11年 |
1936 |
斎藤忠一家文書 | P09506 | 130 |