本文
令和7年9月8日(月曜日) 午後4時から午後6時
県庁24階 教育委員会会議室(Web会議)
開会
平田郁美教育長によるあいさつ
配付資料により事務局説明、質疑
配付資料により事務局説明、質疑、意見交換
事務局から事務連絡
閉会
【スコットランド渡航報告】
(委員A)
事務局の報告の中に、訪問した教員が日本の教育にもよい面が多くあることが分かったことや、現地の教員が日本の規律ある学校生活への関心を示していたことが記されていた。最近では、メディアでも日本の規律のよさを取り上げる機会が増えていると感じている。アカデミー賞の候補になった「小学校」という映画も話題となり、世界でも日本の規律ある学校生活のよさが注目された。
そこで、日本の教育のよさは、規律ある学校生活とセットで考えているのかどうかを事務局に伺いたい。
かつて戦前まで、ヨーロッパでは管理的な教育が行われており、その頃は規律を重視した教育が実施されていた可能性がある。その後、戦後になると人権に配慮した教育へと転換され、インクルーシブ教育が進められる中で、規律が優先されなくなってきたのではないかと考えている。
(事務局)
私たちは、規律ある学校生活や取組そのものを、日本の教育のよい点として捉えているわけではない。これは、スコットランドの人たちが日本の教育に対してもっている独自の感覚のようなものが意見として表れたのではないかと考えている。訪問した職員が動画や写真を見せながら、小学校の取組を説明したが、朝の活動や朝会、登校の様子、あるいは体育に向かう際に生徒が整列して移動する様子など、スコットランドの方々が注目したのはその部分であった。日本の教育に対する固定観念の影響もあるのか、「やはりそういう姿があるのだな」と感じていたものと思われる。ただし、それも含めて、日本の教育には非認知能力・認知能力の双方を高めるための様々な活動があるということも理解してもらった上で、述べられたコメントであると考えている。日本の規律ある学校生活の取組が評価されたというよりも、スコットランド側がそれをどう捉えたかについての発言あった。彼らが前向きに受け止めたこと自体はよいことだが、私たちとしては、同じような形で取り入れてほしいという意図ではなかった。今説明したように、彼らが驚きをもって捉えた点が強く印象に残ったため、その部分を強調してしまったが、表現については、今後注意していきたい。
(委員A)
懸念しているのは、日本のよさというものが、集団行動を重視する方向につながらないようにする必要があるという点である。自発的な行動について、私は忖度して大人や教員の意図を汲み取って行うことを「自主性」と呼んでいる。むしろ重要なのは、大人からの指示に対しても、一つ一つを自分の頭で考えて行動する「主体性」である。自主性と主体性をきちんと分けて物事を捉える必要があると感じている。この点を曖昧にしないようにすることが重要だと考える。
(事務局)
自主性と主体性の違いについては、教育委員会からも発信している。この報告についても、誤解を招かないよう、表現を検討していきたい。
(委員B)
海外から見たときに「規律ある学校が評価されている」という表現が、必ずしも誤りではないと私は考えている。集団と個人の関係は振り子のようなもので、個人主義のみに陥ると本当にまとまるべき時にまとまりにくい。会議の中でも、イギリスの先生から「個人主義のみでは危機の際に集団で動く力が弱い」という発言があった。その点で、日本の集団としての「規律」そのものを、海外の人々も悪いとは捉えていない。「自律」した個人が集まった上での「規律」は非常によいものではないか。要は、規律が「上からのコントロールによるもの」か「自律した個人が形づくるもの」かの違いは非常に重要である。海外では“discipline”や“self-discipline”は高く評価されている。要はバランスが大切だと思う。実際、エージェンシーを紹介した学校でも、自律と自主性のバランスが崩れてしまうと、個人主義が根強い国の学校でもよく見られるような状況(学級崩壊)になることもある。もちろん、自律・自主性の集合体としての比率や他者のために自己抑制(セルフレギュレーション)が高くなり過ぎると、SSESにも関連するような非認知能力が低く出てしまう問題になると思う。なので、二項対立ではなく「バランス」は失ってほしくないと感じている。
(事務局)
同調圧力の強い中で「規律正しく」することと、一人一人が自律して自分の意見を自由に述べ、他者の意見が異なっていても尊重できる状態の中での規律とは、全く異なるものであるということがよく理解できた。今回のスコットランドの意見も、まさにそのような文脈の中での発言だったと思う。したがって、報告書を公開する際には誤解を招かないよう、表現を工夫していきたい。
【SSES Round 2結果分析】
(委員A)
OECDがなぜ性差を調査しているのかが気になった。例えば、女性の進出が世界的に遅れているから性差を調べているのか。その場合、群馬県は性差が少ないと言っているが、日本全体で見ると女性の比率がとても低いと感じている。事務局はどのように考えているのか。
(事務局)
群馬県ではOECDの報告書に基づいて性差を調べた。性差が少ない理由として、他の地域では男子の方が高いスキルがある一方、群馬県では男子の同じスキルが他の地域より低いため、結果として男女差が小さい。逆に、女子のスキルが高い項目では、群馬県の女子は他の地域ほど高くなく、また、男子も低くないため、全体的に性差が少なく見えると捉えている。男女別に解析を行ったのは、OECDの報告書に男女差の記載があったためである。
これは高校段階の最初の調査であり、学校の実情を考えたところ女子が活躍しているように感じた。例えば、生徒会に女子が多く、発表の場でも女子が多い。しかし、それは一部の女子であり、他の女子は男子に比べてのびのびしていない部分あり、つらい思いをしているところもあるのではと感じた。一方、男子については大人し過ぎる印象があり、男子の生きづらさを感じる場面もある。他の地域に比べて男子の値が低く、その結果として男女が同じように見えたことは、男子のしんどさを反映しているのかもしれない。
(委員B)
OECDの調査は国際比較である。その中で最も重視しているのは、公平性と教育の機会の平等であり、それを調べる際の要因の一つとして、全ての統計に性差を含めている。性差以外にも、都市部と地方、生徒の経済的背景などによる差の影響も分析している。日本では男女差が小さいが、国によっては平等性に大きな違いがあるため、国際比較の一要素として性差を分析している。
(委員C)
男女の比較は国際比較の中では必要だと思うが、日本では性差がとても小さかったため、大きく取り上げる必要はないとOECDのレポートを読んで感じた。むしろ、なぜ性差が小さいのかを海外に発信するのがよいと思う。ただ、一番問題なのは、積極性・創造性・好奇心・活発さといった、これからの生きる力に関するスキルが低い点であり、その理由を考える必要がある。規律や集団のまとまりが、よい方向に働く場合と逆に出る場合の両方を考えた方がよい。また、自殺志向率が高いという日本の子どもの傾向もあり、人生や命に関わる重要な要素を深掘りし、どのように改善していくかを考えるべきだと思う。
(事務局)
特にスキルの値が低かったのは、積極性、活発さ、好奇心、創造性である。一方で、テストや授業への不安が強く、自信がない、疲れている、しかし退屈してはいないという傾向もあった。これは、やることが多くて退屈する暇がないという意味かもしれない。学校生活が非常に詰まっている状況が見えてくる。そのため教育ビジョンを策定し、子どもは本来伸びる力やエージェンシーをもっているという考えのもと、子どもを信じて任せていく方向に転換した。授業でも「させる」ではなく、子どもたちが自分の問いから出発する授業へと変えていく。また、学校運営にも生徒が参画することを重視し、教師だけで決めず、生徒とともにできる限り取り組むようにしている。その結果、県立高校でも意識が変わってきていると感じている。子どもが主体的に関わり、「これをやりたい」「学校をこうしたい」と考え、教師が支えながら子ども自身の力で課題を解決する経験を積むことが大切だと考えている。今回の結果を見て、その方向性をさらに進める必要があると感じた。
(委員C)
それに伴い、先生の意識も変えていかなければならないと思う。子ども以上に大変な作業だと思うが、その計画はどのように考えているのか。
(事務局)
教育ビジョンを昨年策定し、「子どもに任せる」「子どもには自分でやる力がある」と明確に打ち出した。これまで、子どもの幸せを願うあまり、大人がレールを引き、外れないように導いてきた。その結果、子どもが主体性を育む機会を奪ってしまったのではないかという反省がある。まず校長がその理念を腹落ちしなければ学校は動かないため、校長に理解を求め、その後、教員にも浸透させてきた。現在も従来型の「きちんとした」教育を重視する教員もいるが、全体として変化を感じている。先生が変わらなければ生徒も変わらないし、生徒が変わった姿を見て先生も変わる。両輪で進めることが大切だと考えている。
(委員D)
データの全体的な分散は正規分布の形だと聞いたが、日本においても同様だったのか伺いたい。また、得点が低い部分があるのは、子ども自身がその部分で評価されるとは思っていなかったためではないかと思う。教師も知識を重視してきたため、子どもも知識が重要と捉えてきた。その結果、通知表に他の項目が書かれていても、それほど重要ではないと感じていた可能性がある。このような観点がなかったからこそ、自己評価が難しかったのではないか。加えて、「活発に活動しているか」などについても比較対象がなければ、自分がどの程度なのか分からない部分もあると思う。分布の話と併せて教えていただきたい。
(事務局)
現時点で分布は取っていないが、ご指摘のとおりだと思う。今後、分布も確認したい。また、「評価されると思っていなかった」という点も、そのとおりだと感じる。
(委員A)
男女差に関係なく全体的に低い部分があり、特に「テスト勉強をすると気が重くなる」という項目は、委員Dの指摘と関係がある。日本の入試システムは、欧米と違い高校受験があり、ペーパーテストで合否が決まる。これは大きな要因だと思う。日本の教師は人物も見ているが、評価の場ではどうしても点数など認知能力が重視されてきた。そのため、子どもが非認知能力の評価を自覚できていないのだと思う。
また、テストや学校での失敗への不安は、入試システムとも関係している。例えば、ディスレクシアやLDの生徒に対して、欧米ではテスト時間を延長したり、読み上げソフトや電卓の使用が認められたりしているが、日本ではそうした配慮が少ない。日本の「平等性」は受験上の平等に偏っており、インクルーシブな考え方の違いも影響していると思う。
(委員B)
この点は文科省の中教審でも議論されている。群馬県が国に先行して、教育ビジョンや群馬モデルの中で「評価」をどうしていくかというよい事例になるとよい。SSESの結果分析を見せてもらったが、群馬県の指定校での取組の違いが可視化されており、それが説得材料になる。先生方も、具体的なデータを見て安心し、取組を進めやすくなる。このSSESの指標と、指定校での測定を組み合わせて示していくのも一つの方法だと思う。
(事務局)
非認知能力は大学入試のための評定とは異なり、家庭の影響も大きい。大学入試や高校入試自体も変わる必要がある。特に進学校では、大学合格実績へのプレッシャーが強く、「子どもに任せる」ことが難しい面があるが、指定校ではよく取り組んでいる
(委員C)
積極性や創造性、好奇心は、学校よりも家庭の影響が大きい。そのファクターをどう扱うかは大きな課題であり、家庭をどう巻き込むかも重要だと思う。アメリカでは保護者も巻き込んでSELやSSESを向上させているが、日本では難しい。群馬県としても、保護者を含めた全体で支援し、巻き込んでいく必要があると思う。皆でよい方法を考えていきたい。
(事務局)
ご指摘のとおり、家庭を巻き込んでいくことが必要である。今後の検討の中で考えていきたい。
(委員A)
群馬県の子どもたちが社交性との相関がとても強いというのは分かる。日本文化そのものだと感じる。やはり同調圧力などが強い日本社会で生きているので、社交的にうまくいっている子どもたちはいろいろ挑戦できるということが起こる。しかし、同調圧力の強い文化の中で社交性の低い子どもたちは、さまざまなことに挑戦できなくなっているという感想を個人的にはもった。
(委員E)
楽観主義に関して、我々の頃の楽観主義は「なんとかなるさ」というような捉え方が多かったと思う。しかし、今の子どもたちの楽観主義はそうではない。今の子どもたちは「失敗=人生終わり」と解釈する傾向が強くなっている。それは家庭の影響が大きい。学校は「受験に受かるために行くところ」と言われて育った子どもたちは、志望校に落ちればもう人生の失敗だと考えてしまう。しかし、生きていく中で失敗をしない人間はいない。失敗した後に周りがどうフォローして、自分の中でどう解釈を変えていけるかという点が、今の子どもたちにおける楽観主義なのではないかと感じている。OECDの調査では、楽観主義が広い意味をもっているため、どのような解釈で「楽観主義」と言っているのかを明確にしないと、群馬県の議論や指針づくりにおいて方向がずれてしまうと思う。他の委員の方が楽観主義をどのように解釈しているのかも聞いてみたい。
(委員D)
社交性について。多くの小学校で「みんなで仲良く」といったことが学校目標になっている。そうするべきだと子どもたちが言われてきたことが大きいと思うし、それができている子は自信があるというのは褒められる機会も多かったと思う。そのため、ここで言う社交性が他の要素と関連しているというのは納得できる。
一方で、楽観主義については難しさを感じている。日本において「楽観的である」ということが果たしてポジティブに捉えられるのか。世代によっても楽観の捉え方が違うのではないか。OECDがどのように質問しているのかが気になる。もちろん低すぎることはよくないが、高すぎるのも問題があると思っている。そのあたりを子どもたちがどう考えているのか。現実的であることを楽観主義ではないと捉えている可能性もある。ここで言われている楽観主義の意味と、研究者としての立場の私自身が捉える楽観主義の意味とで、どのように違い、どのように重なるのかが気になる。楽観主義を事務局はどのように捉えているのかを教えていただきたい。
(事務局)
事務局としても、社交性について、友達をたくさん作れる子は比較的楽に生きられる社会になっていると感じる。一方で、深い友達が一人いればいいと思っている子どもにとっては生きづらい社会であり、それは大人社会にも通じるかもしれない。社交性を重視する社会の中で、社交性に重きを置けない子どもの辛さを改めて感じた。
また、「楽観主義とは何か」についても事務局内で議論した。委員の方々の意見にもあったように、「失敗が許されない」というのは非常に生きづらい。特に若い人ほど失敗するものなのに、それが許されないとガチガチになってしまう。そこに生きづらさがある。OECDの質問項目が公表されていないため内容は分からないが、「楽観主義」という言葉が日本ではむしろネガティブに受け取られることもある。そのため、子どもたちもネガティブに捉えている可能性があると思った。事務局としても委員の皆様と課題意識を共有していると感じている。
(委員C)
楽観主義の定義はよく分からないが、子どもたちが将来的に世界の人々と活動していく上で必要なスキルという観点からは、失敗への向き合い方が関係してくると思う。いくつか教育関係のプロジェクトを立ち上げているが、日本の方とはなかなか立ち上げることが難しい。小さな失敗に対して「これは君のせいだ」とか「君が言ったんだから責任を取れ」というように、他人事にする文化がある。一方、海外の人々は積極的にアイデアを出し、「自分がやる」と進んで行動する。まさにそれが楽観主義である。日本人から見ると粗く見えるが、皆で目標に向かっていくという前向きな姿勢が強い。こうしたスキルや考え方が新しいものを生み出し、人を巻き込む力になっている。
このスキルが日本の子どもに少ないことは、文科省や東京都が推進しているアントレプレナーシップ教育にも影響していると思う。新しいことに挑戦する子どもを育てる上での壁にもなっている。これをどう育てるかを議論した方がよい。また、大人がこれを教えるには、大人自身がそのマインドセットをもっていなければならない。教員でこのマインドセットをもつ人はほとんど見たことがない。どうすればよいかを考える必要がある。
(委員B)
OECDのPISAやSSESでも、楽観主義を「よいもの」としては捉えていない。SSESではビッグファイブを用いているが、楽観主義を教育政策で使うかどうかについては議論があった。人の性格に教育政策が踏み込むべきかという問題がある。したがって、この指標が高いからよいというわけではなく、単にその傾向を示す相関であることを前提にしている。楽観主義の定義は国際比較上、広く捉えられている。
世界中の生徒が参加するプロジェクトの中で、群馬県の生徒も積極的に関わっているが、失敗を恐れる傾向はPISAでも高い。また、英語にはない表現だが日本の生徒が「タイムパフォーマンス」を重視する傾向にも注目すべきである。AIが急速に学校に入る中で、タイムパフォーマンスを競っていては先生も生徒も疲弊する。人間本来の力に立ち戻ることが大切だと思う。
さらに、先生方もアカウンタビリティの名のもとに失敗できない状況にある。受験に関しても同様であり、説明責任の制度自体を21世紀型にしていく必要があるという議論があった。ティーチング・コンパスを多くの国が共創した際、多くの国から「先生も新しい取組にチャレンジし失敗できない」という課題が明らかになった。これは多層的な問題であり、群馬県の教育ビジョンにおいても重要だと思う。
また、「どのスキルが課題で、どのスキルが大事か」という点は、群馬県の教育ビジョンと整合していることが重要である。ビジョンと現場が一致していれば、現場でも納得感が得られる。どの国でも部分最適だけではうまくいかない。群馬県には「始動人」というよいビジョンがある。非認知の群馬モデルも含め、常にそこに立ち返ることが大切だと思う。
(委員A)
「楽観主義」より「楽観性」という言葉の方がよいと思う。
個人的な話になるが、この楽観性が重要なコンピテンシーとして捉えられていることを知ったのは25年前である。仕事の一環で某企業の人事部を訪ね、人事評価について面談をした。当時のその企業は全盛期で、世界的にも注目されていた。学歴不問で採用を始め、人物を評価する「コンピテンシー面接」を導入したのが2000年頃だった。その際、人事部が重視していた5つのコンピテンシーが「好奇心」「持続性」「柔軟性」「楽観性」「リスクテイキング」で、これはスタンフォード大学のクランボルツ教授の理論に基づいていた。楽観性とは、新しい機会や出来事を前向きに捉え、挑戦していく力である。
日本の子どもの楽観性が低いのは、教育が管理的で、失敗を減点していく指導文化が原因だと思う。減点方式は挑戦への臆病さを生む。挑戦と失敗を繰り返して成功に導く経験が重要だ。脳科学でも、人間は失敗に弱い特性があり、減点方式では次の挑戦が生まれにくい。挑戦する子どもに「ナイストライ」と声をかけることが大切だ。アメリカでは「ドンマイ」ではなく「ナイストライ」と言う。失敗を気にするなではなく、挑戦を称賛する言葉である。楽観性は好奇心や自己肯定感、挑戦意欲と結びつき、何度失敗しても「最後はできるだろう」と考えられる力である。非常に重要なポイントだと思う。
(委員F)
ビッグファイブで測っているといっていたが、ここで言われている楽観性はビッグファイブの「オープンネス」のことか。
(委員B)
オープンネスだけではない。オプティミズムも含まれている。
(委員F)
ここで測っている楽観主義は、おそらく新しい体験への興味や好奇心、想像力の豊かさのようなことだと思う。質問項目は見られないが、一般的にビッグファイブの中で言われる「楽観主義」はそうした内容である。
(委員G)
議論の際には定義がとても大切である。IB教育でも定義の置き方が重要になる。楽観に関する意見を述べる前に、日本の教育では長らく「合格・不合格」「優勝・非優勝」など外部の評価で価値判断をしてきたという点を指摘したい。それは自分自身の価値判断ではない。例えばピアノを習う目的が「賞を取ること」なのか「ショパンを弾けるようになること」なのか。IB教育では「自分がどのような人間になりたいか」を目的に置き、そのために努力する。外部の評価に左右されると、楽観か悲観かで気持ちが揺れる。そうではなく、自分が何を成就したいのかを基準にすれば、成功・失敗に左右されない生き方ができる。書道で美しい字を書きたい、体操で技を決めたい、ピアノでこのレベルに達したいといった自分の目標を成就するためにそれぞれが努力する。このように導くことが非認知能力の育成において極めて重要である。その成功か失敗、合格か不合格、一等か二等というような外部の価値判断ではなく、「あなたが何になりたいのか」「どう生きたいのか」に焦点を当てる。そこに成功・失敗はない。そうすれば、不安や落ち込みに支配されない強い生き方ができる。そのように子どもたちを導いていくべきだと感じた。
(委員B)
フィードバックについて。先生によるフィードバックによって、自分の軸で自分を測り、他人軸にぶれずに自分軸をもてると思っている。ティーチング・コンパスに関連した図を見ていただきたい。これはPISA調査による生徒の問診である。この教科で「先生が自分の強みについてフィードバックをくれる」と回答した生徒の割合を見ると、「ほとんどない」または「全くない」と答えた生徒が50%以上と多かった。フィードバックの仕方には専門性が必要なので、研修の中に位置付けるとよい。
もう一つ気になったのが、ティーチング・コンパスで活用したTALISデータの中で「生徒が自分の学びに価値を見出すことをサポートできている」と思っている先生の自己効力感の低さである。日本の先生方は謙遜もあるかもしれないが、それでも参加国中、最も低かった。日本の先生方に結果を尋ねたところ、生徒に「学びの価値を見出す」というよりも、「大学に行ったらいいことがあるから」など、試験で良い結果を出すための学びと勧めてしまっているという省察も共有された。
先生の研修では、今後、生徒が「始動人」になるにあたって、批判的思考、すなわち「鵜呑みにしないこと」はとても大事だと思う。ここもまたTALIS結果で、日本の先生方は数値が低かった。この点も、日本の先生に聞いてみたところ、「批判的思考を教えると生意気な子どもに育つ」と文化的な課題も挙げていた。「クリティカルシンキング」そのものの捉え方(「生意気」や「反抗」ではなく「鵜呑みにしない力」)から学ぶ研修があるとよいと思う。
さらにもう一つ。生徒が教科に興味をもつ時は、実社会がいろいろな教科とつながっていると感じるときなど、日常の中で教科と現実が結びつくときではないか。この双方においても、それを実践できている先生も、TALIS結果では、かなり少なかった。「研修」といっても、先生ご自身の研修も「やらされ感」がないように、先生自身が自分軸でティーチング・コンパスを回していく主体となることが大切ではないか。総合教育センターが全てをデザインする研修ではなく、先生自身が自主的にデザインしていく研修が日本でも増えたらよいと思う。
(事務局)
先生の自己肯定感が低いということについて、今、教員不足が騒がれ、先生たちが本当に疲れていることが問題になっているが、これは自己肯定感にも関係するところである。
(委員A)
今提示された資料は、分かってはいたが、「やはりそうか」と改めて印象深く感じた。考えるべきは、最終的に日本の受験システムに行き着く。入試制度が「点を取らなければ入学できない」という仕組みをつくっている。推薦入試も公立校で増えてきているが、実際には面接よりも内申点が重視されている。学校が評価する調査書の比重があまりにも大きい。むしろ、海外で行われているように、面接や論文で人物を評価する入試スタイルを、思い切って群馬県でも取り入れてみるのもよいと思う。ただ、そこで問題になるのは、非認知能力を見取るための能力が面接官に求められるという点である。しかし、そこを変えなければ能力は上がらない。日本もいつか、欧米のように人物を評価できる入試制度を導入し、人物を見極めるスキルを育てていく必要があると思う。群馬県の入試制度において、内申点ではなく面接点を重視する制度があればよいと感じた。ただし、面接官側にそのスキルをつけるには時間がかかる。
民間企業でも人事部が同じ課題を抱えており、社員の能力をどう評価するか、採用時にどう見極めるかが問題だと聞く。最近では、AIが活用されている。優れた面接官の質問の仕方や判断をAIに学習させ、質問力を高めていく研究が進んでいる。AIなら、「こう質問すると、受験者がこう答える」「その答えに対してさらにどう掘り下げれば能力を見取れるか」といった分析ができる。日本でもそのような研究が始まっており、将来的には必要になってくるだろう。
(委員H)
非常に興味深い議論だった。この議論には日本をはじめ各国の文化的要素が多分に含まれている。注目していることは3点あり、まずは「今後どのように展開していくのか」という点である。情報はすでに多く集まっており、今回の議論は極めて有意義で、多くの知見を得ることができた。そこで、次の報告を楽しみにしている。そして次に、「レジリエンス(回復力)」や楽観性や悲観性といったように起業家精神に求められるスキルがある中で、「好奇心」は、探究学習のように今後日本で大きな注目を集めるようになる。「好奇心」は継続的に育んでいくべき最も重要なスキルの一つであり、どのようにして生徒の「好奇心」を育成していくことができるのだろうか考える必要がある。最後に、よい質問をする力はこれからの時代で最も重要なスキルの一つになるだろう。教師が入試の話をする中で、生徒がどのようにしてよい質問ができるようになるのか、この点にも注目したい。
(事務局)
どのスキルを重視するかについて、先ほど説明したように現在分析を進めているため、群馬県の生徒の強みと課題となるスキルについて伺いたかった。弱いところを伸ばすのか、強みをさらに強めるのかという考え方もお聞きしたかった。委員Bが述べたように、群馬県は教育ビジョンに沿って教育を進めている。その整合性を保つ必要がある。子どもを信じ、任せ、手を引っ張りすぎない。それが教育ビジョンの基本である。そのためには、どのスキルがどのように関係しているのかを明確にし、「だからこの部分を強める」という方向性を示す必要がある。細かい点は研究の途中であり、現段階では答えられないが、教育ビジョンに沿っていないと現場は動きにくい。その実現のために、どのスキルに注目していくかを今後も研究し、専門家の意見を伺いながら進めたい。
(委員E)
社会情動的学習における自らの重要な役割について、教員がこの業務に責任を負うべきであることに関する調査で、先生の約1/4が「ノー」と答えていた。おそらくこれは匿名の調査だと思うが、日本人の特性として「イエスと答えた方がいい」と考える人が多い中で、1/4がノーと答えたことは何かを示している。令和5年の調査であっても、先生たちはそれが必要だとは思っているはずであり、これは「それどころではない」という深層心理の叫びなのかもしれないと感じた。最近、学校の開門時間を早めてほしいという問題が報道でも取り上げられた。先生が「子どもを早く預かってほしい」という要望も理解できるが、実際にはそれどころではないという事情が多い。こうした問題の根本には入試制度の問題があると思う。もし群馬県の中で変えられる部分があるなら、ぜひ取り組んでほしい。まずは全校一斉ではなく、対象校を絞ってでも、先生方の働き方に焦点を当てて試みてほしい。教育委員会のような上位の立場から、先生方の働き方を守り、もう少し自由度のある環境を認めてあげられるとよい。実際には保護者からの反発もあるかもしれないが、そのような声から先生方を守る存在が今はいないように感じている。だからこそ、先生方を守りながらチャレンジできる環境をつくりたい。「ナイストライ」と言ってもらえる職場環境を群馬県で実現できたら素晴らしいと思う。
(事務局)
まさにそれを実現したい。子どもを信じて任せ、自分で考え、責任をもって動く生徒を育てたい。そのために、生徒を見て学校ごとに先生方が議論し、できれば生徒も交えて議論してほしいと考えている。これが今回の教育ビジョンの核心である。先生方は真剣に取り組んでおり、ビジョンの浸透も非常に早く進んでいる。できることから、時を置かずに先生たちがのびのびと働けるよう進めていきたい。